八丈島火葬場七体人骨事件 ― 解かれなかったミステリー

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ある朝、火葬場の炉内にて、無断で燃やされた七体の人骨が発見される。
警察が調べるも、不可解な事実ばかりが浮かび上がった。
これは誰か? 誰でもない。
どこから? どこでもない。
有識者は言った。「まただ」と。
また、祟りが降りかかったのだ、と。
島に伝わる伝説と絡み合い、複雑怪奇な展開を見せた未解決の怪事件。

謎解きは葬儀のあとで

1994年。八丈島八丈町。
お盆を直前に控えた8月11日、その日に予定されていた葬儀のため火葬場の職員が炉を開けたところ、炉内にぎっしり詰め込まれた人骨を発見した。

業務で人骨に見慣れた職員とはいえ、これには驚愕する。

通常、この炉を使用する――つまり火葬を行う際には『墓地、埋葬などに関する法律』に規定される通り、市町村長の許可を受けねばならない。だが、この詰め込まれた人骨に関して一切の申請はなかった。

つまり、無断で焼かれたと言うことになる。

通報を受けた八丈島警察の調べにより、この人骨は約7体分と判明する。この中には子供の骨も混ざっていた。

この火葬炉が最後に使用されたのは、発見5日前の8月6日。
そして人骨が発見されたのが8月11日。
この4日間のあいだに何者かによって無断で使用されたらしい。

日数でいえば4日間とはなるものの、実質的には8月10日を除外した3日間だと考えられた。炉内がすでに冷めていたからだ。

八丈島火葬場七体人骨事件

事件を報じる当時の新聞。
画像は毎日新聞の紙面だが、八丈島の南海新聞が21日に報じ、その後他全国紙でも『八丈島ミステリー』として取りあげられている。
画像出典:毎日新聞 1994年8月24日


発見された人骨の分析により、これらの骨が少なくとも死後10年は経過していることがわかり、当初、これは何者かの手による『改葬』だと考えられた。

改葬とは通常、墓所の移動を指すことが多いが、この場合、亡くなった者を土葬し、一定の年月を経てから掘り起こし、改めて火葬にする島の風習を指す。

八丈町では昭和後期――記録によれば1982年ごろまで土葬が行われており、その後に火葬する風習が残っていた。実際、発見当日もこの火葬炉で改葬が行われる予定だった。

何者かが改葬を、誰とも知らぬ死者の改葬をこの3日間のうちに行ったのだと。そう考えられた。

改葬は良いとして、無断で行うのは褒められた行為ではない。そもそも、これは誰の遺骨か。
警察はすぐに捜査を開始した。

そうして島内にある全ての墓地64カ所が調べられることとなる。いずれかの墓に掘り起こされた形跡があれば、おのずと遺体の身元も判明するのだ。
だが、島内に点在する全ての墓地を確認しても、掘り起こされた形跡のある墓は見つからなかった。

そんなワケあるか!」と2度にわたって64カ所が調べられたが、やはり掘り起こした形跡はない。
そして捜査は私有地にも及んでいるが、これも空振りに終わった。

これにより、『この骨は島外から持ちこまれたのでは』という仮説が浮上してくる――が、そうであるとしても持ちこんだ意図がわからない。

なぜ島外から遺体を持ちこんで、わざわざ火葬炉で焼いたのか。そして、なぜ放置したのか。

不可解な点は、それだけではない。

この遺骨が発見された際、火葬炉には鍵がかけられていた。つまり、密室だ。
11日の朝の状況は職員の話によれば

・しっかり施錠されていた。
・ボイラーの重油バルブも元通りに閉まっていた。
・二号炉にすべて入れられていた。
・通常、焼いた骨を拾うために設置される受け皿は使用されていなかった。
ということになっている。

『謎が謎を呼ぶ』とはこういう時に使うのかも知れない。

当時、この事件は『お盆前のミステリー』として騒がれ、町民からは

これは犯罪絡みの遺体ではないか。何らかの犯罪に巻き込まれた被害者の遺体で、痕跡を消すために無理やり燃やしたのではないか

戦時中の死者の骨ではないか。戦時中、軍が島内に司令部を造ったが、この建設作業中に死亡した作業員たちの遺体では

という声があったことを毎日新聞が触れている。

そして、少しばかり怪談チックな話になるが、近所に住む住民が遺体発見の前日に火葬場から『青白い炎』のようなモノが上がっているのを見たという。その青白い炎を火の玉と見立てたのかは定かでないが

バラバラに埋葬された家族が、寂しくて自分たちで戻ってきたのではないか

そんな事を言う人もいた。お盆だしね。

そして、この事件を過去に起こった事故と結びつける者もいた。
それはこの人骨事件の40年前、島を横断する道路の建設中に土砂崩れが起こり作業員七名が亡くなった――という痛ましい事故だ。

調べてみれば、確かに事故は起こっており、それを報じた地元紙『南海タイムズ(1952年11月23日付)』の見出しは以下のようになっている。

『中之郷潮間林道大崩壊
惨! 大澤監督ら
七名生き埋め』
ちょうど、亡くなった作業員の数が七人だ。
火葬場で見つかった人骨も七柱。

この『7』という数字は、島では特別な意味を持っていた。島に伝わる伝説と重なるからだ。

それは『七人坊主
はるか昔、八丈島の海岸に流れ着いた僧侶七人が島民に迫害され、惨苦の中で死んでいったという物語――。

僧侶たちは『妙な術』を使うとして村人に恐れられ、迫害された。村へと続く道には柵や罠を設置され、食べ物の乏しい東山へと追いやられ、そこで僧侶たちは村人たちを呪って一人、また一人と死んでいった。

それから村では、不吉な出来事が相次いだ。
夜がくると白装束を着た僧侶の霊が村内を歩き回り、収穫期には農作物が不作になり、家畜は次々に死んだ。

そこで村人たちは祟りを鎮めるため、東山の頂上に七人坊主の塚を建てた。

しかし、坊主の祟りはその程度では収まりきらず、現代になっても東山付近で僧侶の話をしたり悪口を言ったりすると、かならず怪我や病気という災厄に見舞われるという――。

これが民話として島に伝わる『七人坊主』だ。

この話は八丈島の郷土史家、浅沼良次氏による民話集『八丈島の民話』に『七人のぼうさん』として採録されている。

そして、この民話集が出版された昭和40年(1965年)には、この民話と土砂崩れ事故を結びつける者はいたようで、民話集の中で「七人』と『いわく付きの場所』だけあって気味の悪い、不思議な事だ」と触れられている。

1994年の七人骨はこの伝説を継承した物か。

七人坊主の祟りは、まだ残っているのか。

もう少し掘り下げて見てみよう。


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沖で見たとき 鬼島と見たが

七という数字にこだわって見た時、八丈島では『七曜様』という民話も見つけることが出来る。

この民話では、坊主たちが非業の死をとげた東山の頂上に七人の老人が居たとする。
あるとき、ある母親が「おまえの子供は16歳までに死ぬだろう」と予言され、それを回避するには東山の七曜様を訪ねろと指示される。

予言を恐れて東山へと赴いた母親は、そこにいた七曜サマの指示に従い、七曜サマに88個のダンゴ餅をお供えした。
そうしたことで七曜サマの功徳により、子供は88歳の米寿まで生きたという。

民話でなく、童歌にまで視点を拡げれば、『七で終わり、繰り返すお手玉唄』なども見られる。

とはいえこれらは祟るようなモノでも、そのメタファーでもなさそうだ。
やはり、『七人坊主』ほどの不吉さはない。

余談だが、2014年に以下のニュースがあった。

東京・八丈島で88歳女性の変死体 事件性の有無を捜査 警視庁 東京・八丈島の民家で5日、住人の奥山さい子さん(88)が口から血を流して倒れているのが見つかり、その場で死亡が確認された。遺体に目立った外傷はなく、警視庁八丈島署が死因や事件性の有無を調べている。

同署によると、介護ヘルパーの50代女性が同日昼ごろ、東京都八丈島八丈町大賀郷の奥山さん宅を訪れたところ、1階の廊下で奥山さんがあおむけに倒れ、口から大量に血を吐いていたという。玄関は無施錠だったとみられ、室内に争ったり、物色されたりした跡はなかった。
奥山さんと同居している夫(86)は認知症で、意味の分からない説明をしているという。 

88歳、ちょうど米寿のご老人ということで、『七曜様伝説』と符合し、少し寒気がするような話である。(これは後日認知症の夫による犯行だったと判明し、事件は解決しているが)

余所に目を向けず、『七人坊主』に戻ろう。

この『七』という数字と『亡霊』という特性は、有識者によって怪異『七人ミサキ』との類似が指摘されている。

熊取町7人連続怪死事件【別項】』でも少し触れたが、七人ミサキとは水難で亡くなった者たちの怨霊で、七人が一列になってやってくる怪異だ。

七人ミサキは誰か1人を祟り殺すと、先頭の者が成仏し、祟り殺された者が今度は最後尾に並ぶという。そして1人減っては、1人増え、七人組のまま永遠に彷徨い続ける――という。

この『七人坊主』が『七人ミサキ』と変容していったのかどうかは良くわからないが、少なくともこの八丈島で起こった一連の事件と併せて紹介されることが多い。

民俗学の巨星、柳田國男が『みさき神考』などを書き残しているが、各地域によって様々な捉え方があるようで――正直いうと、イマイチよくわからない。『ミサキ』というのも『御先』と書く説や『岬』でよいとする話もある。
いい加減なことを書くと民俗学警察に吊し上げを食らうのでやめておく。


興味深いことに、情報を集めてみれば、この七坊主たちは現代でも目撃されている。

奇跡体験!アンビリバボーや山口敏太郎氏によれば、土砂崩れ事故の現場付近で緑衣に身を包んだ坊主がたびたび目撃されるのだという。

仏に仕える坊主のクセに人様を祟るなど、けしからん事のように思えるが、それはいい。

そもそも、この『七人坊主の死』は本当にあった出来事なのだろうか?

これについて怪奇探偵の小池壮彦氏が、『怪奇探偵の実録事件ファイル〈2〉』で 書いておられるのでそれを参考に軽く触れてみよう。

民俗学者、大間知篤三の『八丈島 民俗と社会』によれば、正徳元年(西暦1711年)に難破船が八丈島に流れ着き、その船員が天然痘のキャリアであったことから島内パンデミックが起こり、翌年の秋までに990人余りが死亡した。
ある村では、感染者を近寄らせぬため、柵をもうけて侵入を防いだという。

そして、歴史資料によって八丈島に中国の僧侶がたびたび流れ着いていたことも判っている。
多くの僧侶は島の寺に迎え入れられたが、同時に祟りもなしたらしい。

八丈島出身の学者、高橋興一が享和2年(西暦1802年)に書き残した『園翁交語』には

いずれの頃か華人流れ来る。其墓所村々にあり。其山に入る時は祟りをなし、村民悩み煩ふ事時々なり

と書かれており、この頃には華人坊主の祟りが存在していたことがわかる。坊主のクセに祟るなと。

残念ながらその華人だ誰で、墓がどこにあるのかは判らなかったが、これらの歴史的事件と七人ミサキの話が習合され『八丈島七人坊主伝説』となっていった可能性は高い。

この八丈島の七人坊主伝説によれば、「東山付近で坊主を悪く言った者は祟られる」とされており、1952年の土砂崩れ事故が起こった際も、作業員が坊主をケナしていたと浅沼良次氏が書いている。

ここまで散々坊主の悪口を言ってきたオカルトクロニクルとしても他人事ではない。どうせなら祟られるなら、坊主じゃなく美人の怨霊のほうが祟られ甲斐があるというものであるが……。

だが、どうだろうか。
1994年の人骨事件も『七人』という人数こそ伝説と符合するモノの、「これぞ坊主の祟りだ!」と言われても、なんだか不気味なだけで、いまいち腑に落ちない。
もっと現実的なアプローチはできないだろうか。

次ページでは坊主や民話のことは一端忘れて、人骨事件の謎を掘り下げてみよう。

『人捨穴』や『旧日本軍』『犯罪』『習俗』その他の可能性を検証すれば、なんらかの手がかりが得られるかも知れない。

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