ミイラ漂流船――良栄丸の怪奇

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待てど海路の日和なし

この事件がアメリカで大きく報じられたのは、発覚した当時の世相にも原因を見いだすことが出来る。

当時はいまだ人種差別が強く、事件発覚後、保守排日色の強いメディアがここぞとばかりに食人記事を打ったからだ。それに流された各社が後追いで記事を書いたという構図になる。

大漁旗を指さし「見なさい、あのケバケバしい旗を。野蛮の証明という他ない。あれは女性を乗せているというサインなのだよ」 と良くわからない主張もでるほどだ。

大漁旗と女性がどう繋がるのか。まるでわからない。普段からいかがわしいことばかり考えているからこのような発想に至るに違いない。我々を見習って欲しいものである。

表向きは紳士であろうとしても、胸の底には澱のようにわだかまる差別意識や悪趣味嗜好があった。

そこに飛び込んできた有色人種のショッキングな所行。彼らはここぞとばかりにバッシングして鬱憤を晴らした。ストレスは解消され、自意識は満たされたに違いない。

ほほほ、カラードは野蛮だね、まったく。……どれどれ後学のためにもっと記事を見せなさい。写真はないのかね写真は。船に乗せられて検閲済まで検閲済されて、最初は嫌がっていたのに次第に検閲済という不憫なレディーの写真は」と言うわけである。

様々な歴史資料に目を通すと、よほど白人たちの方が非人道的な行いを繰り返しているのであるが、それはいい。

まず、食人について見てみれば、たしかに当時の新聞記事のほとんどで触れられている。
これは、医者の権威がバックグラウンドにあったからだと思われる。

検死した医師が「こりゃあ、喰っとりますわ!」と言ったのだから、遺体の状態を見ることも叶わない一般人としてはそれを否定することも難しかろう。

科学的裏付けがあるのだから、と差別を抜きにして事実として書いた記者もいただろう。

だが、シアトルからの特電で行方不明になっていた家族が遙か米国で発見されたことを知らされた良栄丸乗組員の遺族は、何重ものショックを受けた。
良栄丸船内見取り図

船内見取り図。
和歌山県立図書館所蔵の良栄丸遭難記録を元に作成。協力:かよたんさん


家族の帰還を首を長くして待ちながらも、心のどこかで「戻ってこなくても良い、どこかで生きてさえくれていたら」――そんなささやかすぎる願いや淡い希望は無残に打ち砕かれ、さらに踏みにじられた。

「人喰い鬼」「自分が生きるために他のクルーを殺した鬼畜」そんな風に報じられて、遺族の心中はいかなるものだったろうか。

特に、最後まで生きていた三鬼船長の遺族への視線はことさら冷たかった。
船長の妻や子供たちは非難の矛先で小さく生きていた。

現地でも日本人への風当たりは強く、シアトルに住んでいた在留邦人はかなり肩身の狭い思いをしたそうだ。

せっかちな諸兄は、「なんだよ! 航海日誌見れば全てが明るみになるだろ! そのために新聞社が入手を競い合ったんじゃないのかよ!」と憤慨するかも知れない。
それは全く正しい。

事実は明るみになった。

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誤報を伝える当時の新聞。噂に苦しめられていた妻は、知らせを聞いたとき泣き崩れたとあり、親族のどのような心境で暮らしていたかがよくわかる。
文中で『少女』と言う文字だけ大きく書かれている。文化として成立・定着する以前から萌えは根付いていた。
画像:朝日新聞 1927年11月27日付け


航海日誌には死に至るまで船員同士がいたわり合っていた事実が記載されており、他を探しても食人の証拠は出てこなかった。

そして12名の連名による遺書や三鬼船長が妻子にあてた最後の手紙の内容が検められると、その内容に目を通したアメリカ人たちの誤解は解け、こんどはその悲劇的な状況と、死を決意しながらも協力しあって漂流していた乗務員達に同情が集まった。

新聞から当時の様子を覗いてみよう。
死の船良栄丸の悲惨な最期をつづった日誌全文を掲載した本誌を携えて記者は26日午後2時、和歌山県西牟婁郡串本町の船長三鬼登喜造氏の遺族を訪ねる。
いたいけな少女の身で新聞配達をして母を助けている長女かつえ(13歳、串本町小學校高等科一年生)は今しも新聞を配達して帰宅したところであった。他の家族も寄り集まって記者の朗讀する日誌の全文を聞きつつすすり泣きの聲(声)に満たされたが、船長の妻つね子(41)はやがて涙の顔を上げて。

「今日まで人の噂では船長は乗組員を見殺しにしておめおめ最後まで生き残り、しかも船員の肉を食ったとか八丈島に進路を取ったのが問題の因だとか様々な非難を聞くたびに身が切られるやうな思ひがして何でもつと早く夫は死んでくれなかつたか、どうかして眞相を知る方法はないかとそればかりを案じ暮らしていましたが今度一切の眞相が分かる日誌を新聞に載せて頂いてこんなうれしいことはありません」
(後略)
東京朝日新聞 1927年11月27日付け

 
遺族は数週間、いたたまれぬ気持ちで過ごしていた。「どうしてもっと早く死んでくれなかったか」という言葉が悲しいかな、どうしようもなく日本人的発想だと思う。
誤解が解けて良かった。

「この記事、妙に少女かつえに関しての個人情報が多いのう」――と思われた目敏い諸兄もおられるかも知れないが、それは穿った見かたと言うモノである。たしかに記事の中では息子に関しては一文字たりとも言及していないが、偶然だろう。天下の朝日新聞の記者がローティーンの少女ばかり気にするなど、あろうはずがない。普段からいかがわしい事ばかり考えているからそういう発想に至るのである。

ちなみに、妻つね子の言葉にもあるが「八丈島へ舵を取ったのが失策」と船長は酷評されたが、気象学者である藤原咲平によるのちの検証で、その判断は正しかったと第三者の手で汚名返上されている。

「しかし、数次の北西風のため、根気を失い、この計画を放棄したのは、惜しいことである」とも付け加えられてはいるが。
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藤原咲平博士によって推定された良栄丸の航路。アメリカへ向かうことを決めた12月26日頃の位置を見てもらえば、これがいかに途方もない計画であったかが分かって頂けるかと思う。
画像出典:海難史話


乗組員達が最後まで記していた航海日誌のおかげで、誤解は解けた。

だが、「じゃあ石油缶に入っていた人体は何だったって言うんだよ!」と諸兄らは憤るかも知れない。

これに関してオカルト・クロニクル特捜部はかなり調べを進めたが、結局ソースが掴めなかった。
派手に第一報を打ったというクロニクル・テレグラム紙の情報なのだろうか。

残念ながら当時のクロニクル・テレグラム紙を入手することかなわず、確認のしようがない。

これに関して、数年前まで運営されていた『誰か昭和を思わざる』(現在は閉鎖)というサイトがあり、そこで良栄丸事件を取りあげたところ管理者の方に現地シアトルの方が当時の地方紙記事を送ってくれたそうだ。運営者の方はそれを元に後記という形で記事に加筆しておられた。

もちろん資料収集に力を入れるオカルト・クロニクルとしては、垂涎の情報であるからして、『誰か昭和を思わざる』の管理者の方にコンタクトを取り、いやしくもコピーを譲っていただこうと考えたのだが――無理でした。

管理者の方のメールアドレスが無効な宛先となっており、諦めざるを得なかった。くちおしや。
誰か連絡先を知っておられる方がおられましたら、こっそりと教えていただきたい。

だが考える上でのヒントはある。
良栄丸の写真だ。

以下のモノを見て欲しい。

タウンセンド港まで曳航されてきた良栄丸。 画像出典:O. M Salisbury /saltwater people historical society

タウンセンド港まで曳航されてきた良栄丸。
画像出典:O. M Salisbury /saltwater people historical society


この船体を見れば
甲板には60センチをこえる昆布が芽吹いており、船体側面に張り付いたフジツボが船までを覆いつくさんとしている――。 という話がすでに誇張されたものだったことが分かってもらえると思う。

すくなくとも、『いかにも幽霊船』という趣ではない。

『誰か昭和を思わざる』でも「現在に至るまで良栄丸怪談として伝わる人肉食の話はこの現地報道を大元としている」としておられ、第一報がかなり派手にやらかしたのではないかと思う。
こうなってくると、石油缶に入れられた遺体というのも信憑性が乏しくなってくる。

では『発見騒ぎがおこる以前に、良栄丸と遭遇したウエスト・アイソム号』の話はどうだろうか?

せっかく助けようとしたのに、良栄丸のクルー達がボンヤリと見つめてくるばかりで話にもならなかったという。

個人的には食人うんぬん、殺し合いうんぬんよりも、この話のほうにオカルト的ウエイトを置いている。実に興味深い。
だが注意深い諸兄は、良榮丸日誌控の最後まで目を通し、鼻で笑うはずだ。

「フフン、オカルト番長マツカク、語るに落ちたな。ちゃんと日誌に目を通したのか? 良榮丸日誌控にそんな出来事は記されていない。この程度の捏造を見破れないとは拍子抜けだな。約束通り、今日からこのサイトは我々諸兄連合が仕切らせてもらう」と。

確かに、良榮丸日誌控にウエスト・アイソム号とのボーイ・ミーツ・ボートは記載されていない。
もちろん、オカルト・クロニクルとしても一番最初に疑った話である。

日誌にないじゃないスか、と。ちゃんと気付いてます。

だが、コレ、どうも事実らしい。

ウエスト・アイソム号と良栄丸は出会っている。

『誰か昭和を思わざる』でも第一報のなかで言及されていたが、1962年に出版された『海のなぞ海のたび (1962年)』のなかでも海洋物理学者の宇田道隆氏が触れている。

オウフ、なんだかオカルト的に興味深いことになってきた! と思われるかも知れない。

だがその期待はむなしい。

船体の話同様、これも派手に脚色されているようだ。ただし最初の時点ではなく、かなり時間が経過してから。

第一報によれば、ウエスト・アイソム号は12月23日に良栄丸と遭遇した。そして漂流船と気付き、接舷している。だが、良栄丸サイドが普通に救助を拒んだとある。それで仕方なく放って行った。

『海のなぞ海のたび』で宇田博士は「奇妙ではあるが、船を捨てるのが忍びなかったのではないか」と推測しているが、本当のところはわからない。当時の最新鋭漁船だったというから、その可能性も低くはないと思う。

ただ、この『救助拒否』が後に脚色され、怪談めいた幽霊乗組員バナシへと変容していったようだ。
それも、おそらく日本で。

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トッタン ハ カエレナクナリマシタ

この事件をして、闇が深いのが良栄丸怪談だ。

いやしくもオカルト年代記を謳うオカクロとしては、この成立の流れにも触れておきたい。

最初にこの事件を怪奇譚として伝えられるに大きな役割を演じたのが現地新聞なのは間違いない。そしてそこに大手も乗った。

人は意外とドナー隊やアンデスの聖餐、フランクリン遠征などこの手の話を好む。

ショッキングかつセンセーショナルなアンデスの聖餐などは『生きてこそ』というタイトルで映画化もされ大ヒットとなった。

そして、これは憶測でしかないが、この良栄丸遭難事件が発覚したときシアトルの人たちは上記の事件や、9年前に起きたデュマル号の事件を想起したのではないだろうか。

デュマル号の事件に関して国内に言及したサイトがないので少し説明すると、これはシアトルのあるワシントン州の隣に位置するオレゴン州ポートランド船籍のデュマル号が太平洋で遭難した事件を指す。デュマル号は落雷により航行不能に陥り、後に生存者が食人によって餓えをしのいだことを暴露し騒ぎになった。

気になる方は『SS Dumaru』で検索されたし。遺族のインタビューなども読める。

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何者かはよく解らないが、このJW Sparrowというオジさんが良栄丸の歌を歌っている。事件を元にした曲ではあるが猟奇的な楽曲ではなく、歌詞も曲調も牧歌的なもの。なんだか、よくわからないけど、ありがとうございます。
下の出典リンクで曲のサンプルが聞けます。
画像出典:Dances With Words by JW Sparrow


遭難=食人。
デュマル号のように、良栄丸だってやったはず。そんな予断が記者や検死した医師にもあったかも知れない。

実際、記事を書いていて頭が痛いのが『良栄丸で食人は本当になかったか?』と問われたときに、無かったと断言できる証拠をオカクロは持ち合わせていない。だから食人に関しては100%デマだとも言い切れない。

とはいえ、もし良栄丸に食人の事実があったとしても、誰にも非難する権利はないだろう。『生きてこそ』を見て下さい。まじ人間なんて生きてこそっすよ。

カロリー計算をして潔白を検証してみようかとも思ったが、あまり意味のある行為でもなさそうなので止めておく。
すくなくとも、乗組員は海鳥やサメなどを弱った身体で果敢にも捕った。これで充分だと思う。

同時に良栄丸から回収された日誌や遺書により、人々は心打たれ、怪奇趣味を引っ込めた。これも事実だ。

船長から家族に向けて書かれた遺書も引用しておく。




【妻へ宛てたもの】
サテ 私事ハ仕合ワセノ悪イコトデス
私ノタメニ 貴女ラニ苦労ヲサセマシテ 誠ニスミマセン
貴女モコレカラハ 苦労デス
子供等二人ヲ頼リニシテ 人ニ頼ミマス
イサクノ爺サンヤ婆サンニ ヨロシクユウテクダサイ
ワタシモ アト十二、三年 生キタカッタ
二人ノ子供頼ミマス
喜久男ガ大キクナリテモ 必ズ漁師ニダケハサセヌヨウ頼ミマス
尾鷲ノ人ラニ頼ミ 学校ダケ入レテ貰イナサレ
喜久男ガ大キウナリマシタラ 商売ノ事ハ寅吉サンニ任セナサレ
イツマデ書イテモ同ジ事 私ノ好ナノハ素麺ニ餅デシタナ

三鬼登喜造ノ妻 おつねサマ

【娘に宛てたもの】
勝江 オ前ノ学校ノ卒業式ヲ見ズニ トッタンハ 帰レナクナリマシタ
情ケナイ
オ前ハコレカラ 賢クナリテ 孝行モシタリ 母ニ足シニナリテヤッテクダサレ
頼ミマス
賢ク頼ミマス 母ノ言フ事ヲ聞イテクレ

トッタン

【息子に宛てたもの】
喜久男 トッタンノ言フ事ヲ聞キナサイ
大キクナリテモ 漁師ハデキマセン
賢ク頼ミマス 母ノ言フ事ヨク聞キナサレ




船長の無念が忍ばれる遺書である。

娘である勝江さんはこの遺書が届く前から家計を助け、キチンと孝行し、告げられる前から父の遺志を受け継いでいた。

もしかしたら、朝日新聞の記者は、この遺書に目を通したからこそ少女の動向が気になり記載が増えたのかも知れない。「三鬼船長。カツエちゃん頑張ってますよ」と。

ともかく、11月27日の時点で、誤解は解けた。
世間的には食人の事実はなかったとされ、名誉は回復した。

それなら、なぜ怪奇譚だけが残ったのか?

これは日本で1960年代から1980年代にかけて出版された児童向け怪奇本やオカルト関係書籍が主犯だとされる。
流言飛語を事実のように扱い、世に広め続けたからだ。

「オカルト本なんてそんなもんよ。非難するに値しない」と冷笑するのは容易い。だが、1967年出版の『日本逸話大事典〈第8巻〉みゃ-わん,索引 (1967年)』という権威ありげな書籍でも八巻目、良栄丸の項で『食人を行った』としている。

ここには微かな憤りを感じてしまう。ちゃんとした本のクセに、ちゃんと調べたのかよ、と。

シアトル特電の一報以後も良栄丸のことは日本の各新聞が追っており、少し調べればすぐに誤報だったと判るにもかかわらず、だ。

一方のアメリカでは、完全に風化して今では扱うサイトも片手で数えられる程度だが、この良栄丸事件はオカルト話でなく、悲しい水難事故として扱われている。この差はなんだろうか。

アメリカ人が貶めた名誉を、アメリカ人が回復し、日本人が貶め続けている。三鬼船長の言葉を借りるなら『情ケナイ』であろう。
どこが出所かもわからないが、日本のオカルトサイトでは偽の良栄丸日誌も証拠として貼られている。以下が顕著な例だ。



「3月27日。寺田初造と横田良之助のふたりは、突然うわごとを発し、おーい富士山だ。アメリカにつきやがった。ああ、にじが見える……。などと狂気を発して、左舷の板にがりがりと歯をくいこませて悶死する。いよいよ地獄の底も近い」

「3月29日。メバチ一匹を桑田藤吉がつりあげたるを見て、三谷寅吉は突然として逆上し、オノを振りあげるや、桑田藤吉の頭をめった打ちにする。その恐ろしき光景にも、みな立ち上がる気力もなく、しばしぼう然。のこる者は野菜の不足から、壊血病となりて歯という歯から血液したたるは、みな妖怪変化のすさまじき様相となる。ああ、仏様よ」

「4月14日。船室にて不意に狂暴と化して発狂し死骸を切り刻む姿は地獄か。人肉食べる気力あれば、まだ救いあり」

デマである。
事実無根とされて撤回されたものを、わざわざ日誌の文面を似せ、さも事実であるかのような記述をし色付けをする。そのような行為は決して上品な行いとは言えまい。あまり上品ではないオカルト・クロニクルにコケにされては沽券に関わりますよ?

しかし誰かがコレを作り、誰かが見つけ、誰かが広告を貼り付けて拡散してゆく。

追記 2018.12.15
この『デマ航海日誌』について、把握できていなかった事実が読者の方のメールから浮上した。

オカクロ特捜部はてっきり食人記述がネット掲示板なりバイラルメディアが出所だと思っていたが、これは間違いでした
メールを頂いて初めて知ったが、この食人記述は佐藤有文『四次元ミステリー キミは信じられるか(1981)』に載っているのだという。佐藤有文氏といえば、こう、ぶっ飛んだ内容のオカルト記事を量産してはいたが――。

一応、話の裏を取るために良栄丸関係の資料を再び調べた。

1928年『水産 3月号』
1934年『国際エピソード』
1941年『海流の話』
1957年『海洋の秘密』→『新・海洋の秘密』
1970年『世界の怪奇船』
1972年『世界のミステリー』佐藤有文 大陸書房
1972年『小六教育技術』
1975年『新・海洋の秘密』
1977年『死の航路』
1980年『紀州史散策』
1981年『四次元ミステリー キミは信じられるか』佐藤有文

この中で、食人描写があるのは『世界のミステリー』、そして『四次元ミステリー キミは信じられるか』のみ。つまり佐藤氏のみ。

デマ食人描写の発端になったと推定される佐藤有文『世界のミステリー』より原文。p205~


たしかに、まったく同じ。ネットを漂う『良栄丸食人描写』は誰かがこの佐藤氏の著作からネットに転記したものが広まったと考えてよさそうだ。よってネット発という発言は謹んで訂正させていただきます。ひなた様、情報ありがとうございました。

※追記に関して。
この佐藤氏に関しての話は書籍には一切載せていないが、これは初版が出たあとに情報をいただき調べなおしたため。
2版以降に追記しようかと思ったが、初版を買ってくれた方との情報格差が生まれるのでサイト記事という形を取らせていただいた。失礼しました。



かくして日本のWEBサイトにだけ『実話! 人喰い船、良栄丸怪奇譚』が存在する。
そしてこのオカルト・クロニクルの記事もショッキングな部分だけが恣意的に抜粋され、小金目当てでNAVERまとめにコピペされ、風説流布の一端を担うのですね。

別に無理やり色を付けなくとも、奇妙な事や不思議は残っている。

なぜ、良栄丸は救助を断ったのか。
なぜ、その遭遇のことを日誌に書かなかったのか。
なぜ、水葬のことを書かなかったのか。
日誌の記者である松本源之助が出航前に『虫の知らせ』を感じていたこと。
twitterでは『死者』が出始めるのと時を同じくして再びサメが釣れ始めている――という興味深い指摘もいただいた。

正直、この事件は他サイト批判含みになるのであまりやりたくなかったが、日本のオカルトサイトとして乗組員と遺族の名誉のため事実に則した記事を書いてもいいだろうと思い項を設けるに至った。

別に国粋主義者でもナショナリストでもないが、せっかく『困難な状況でも冷静を失わなかった良栄丸日本人スゲー!』と賞賛されたものをわざわざ同国民が貶めることもないと思うのだがどうだろうか。
故人が自ら回復することが出来ない名誉を、捏造した情報で傷つけるのは褒められた行いではない。

と、少し憤った話はともかく。

良栄丸怪奇伝説はまだ生きている。
そしてお孫さんの世代ではあろうが、遺族たちも生きている。
生きてこそ、ではあるが前者はしぶとすぎる。これが『憎まれっ子、世にはばかる』と言うやつかも知れない。

そして謎は残った。

90年前の12月23日、なぜ彼らは救助を断ったのか。
その以前の日誌にすでに「ただ汽船を待つばかり」とあるにも関わらず。

90年が経った今でも、その謎が漂流し続けている。そしてきっとこれからも。

だがクルーや三鬼登喜造の魂だけは、きっとこの国に帰郷したに違いない。
そう信じたい。
 
■参考資料死の航跡 (1977年)海難史話海洋の秘密 (1957年) (現代教養文庫)海のなぞ海のたび (1962年)日本逸話大事典〈第8巻〉みゃ-わん,索引 (1967年)どくとるマンボウ航海記 (新潮文庫)世にも恐ろしい船の話―恐怖の海サルガッソーと怪談と刑罰 (光人社NF文庫)A Traveler’s History of Washington (Roadside Historical Guide)海流の話 (1983年)国際エピソード海洋奇譚集 (知恵の森文庫)ミイラ大百科良榮丸日誌控小六教育技術 2014年 06月号 [雑誌]海と安全35Seattle Times/Daily Illini/The Straits Times/Medina NY Daily Register Journal/Stanford Daily/The Cornell Daily Sun/The Twin Falls Diary/Philadelphia PA Inquirer/Victoria college annual/朝日新聞/読売新聞/以上の紙面1927年11月~1928年1月pnwfolklore.orgsaltwater people historical societyJW Sparrow/誰か昭和を思わざる(閉鎖)たきおん(閉鎖) ■別ページ資料■良栄丸日誌控 全文
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