資料 良栄丸日誌控 全文

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資料概要

オカルト・クロニクル『ミイラ漂流船――良栄丸の怪奇』項資料。
『良榮丸日誌控』の全文。

原文で判読不能とされている文字は『●』に。難読漢字および歴史的仮名遣(旧仮名遣)や漢数字は英数字などはなるべく読みやすいよう変更したが、文章そのものに手は加えていない。注釈は小さい赤文字にて記載。誤字脱字、距離単位、同義漢字等の使い分けは原文まま。
この手記は伊澤捨次、途中から松本源之助の両名によるもの。この日誌の全文はアメリカの新聞社が版権を獲得しようと騒いでいた物である。

尚ほぼ原文丸写しではあるが著作権は失効していると思われるので、B-quoteタグは省かせていただく。




良榮丸日誌控
大正15年12月9日 午前0時三崎港より8航海の出帆、銚子沖合に向う筈のところ天候の都合により一時銚子港に入港する事になり6日午前8時着、7日午後1時出帆致し、6時間沖にて里数約25里沖にて8日午前3時より商賣致し9日同じく致したるにアサ魚200目サメ4ヶ釣り、マグロの都合で10日朝から●時間沖に出したるにマグロなくしてサメ15釣り、11日またも地方よるべき筈で30時間舟を走らせしが山見えず速汐に乗つたのである。




(大正15年12月)12日
午前頃突然 機械クランク部が折れチョット思案にくれた、仕方なく宜敷上げしが(註:帆をあげたものの)折惡く西の風にて自由ならず、舟を流す事にした。
11日午前の時より14日午前9時まで雲り(註:曇り)勝にて少しも風なく流した。朝めし終り9時半ノーイス(註:north east)より少し風吹きだし午後1時より追て(註:追手)風強くなり約67浬(註:約124km)は走つている。この時は一同は大喜びである なかには夜が明けたら山が見える亡霊●●かと思うといつのことやら先食物は大切にという事になつた。




(大正15年12月)14日
午後3時半船長はそれをとるはずで自分一人で仕度し勇吉はめし燒き(註:炊き)の仕度、夜の12時より北の風最も强くなり舟のかぢは二人にて交對(註:交代)という事になつている。




(大正15年12月)15日
朝朝めしを食事中ノース方面より紀州船によく似た20トン位の船見付、早速フライキ(註:大漁旗)をあげしところ、見えさりしかそのまま行き去つた。15日午前9時から午前12時船長は、吾は承知であるが皆は氣の毒であると話しておる。
食物 米4俵 一石6斗、醤油3升、酢4合、大根4本、ごぼを6本、芋500匁、みそ1貫目、茶1斤、カンピヨ100目、メカ魚200貫、サメ魚20本、イカ300枚。

これみな干物にて丸4ヶ月は大丈夫、また食のばすという船長の意見 皆これに決心した。
15日午前1時に至りイースト風追手となりウエス(註:west)に向けて馬力をかけた、6時に至り風最も强くなり小雨あり 毎日オカイサン(註:竜胆さんよりご指摘、オカイサン『海産』→『お粥』)ばかり、ただ汽船を待つばかり、午後8時半寺田、松本かじ番になつている。




(大正15年12月)16日
午前7時サウス方向より東洋汽船會社の住●(註:船名一字抹消)丸進行し來り これ神の引合せなりとてフライキ2本 火をだすやら大さわぎするうち汽船は●(註:数字抹消)ゆきすぎた、しかし大體沖でない(註:それほど沖ではない)という事はその道で判っている、朝から睛天であるが風は同じく追手である、またも帆を上げウエスに突進、午前9時半かぢは寺田、桑田、ほかのものは干物用意、水凡100貫(註:約375リットル)
14日午前12時より。16日8時まで44時間ウエスに流し、16日午前10時またもサウエスより今度は吾ら同商賣の紀州船見付、色々信號致せしも その甲斐なく凡30分ののち見えなくなつた、風は少しもなく海鏡の如く また西風になり雲行き残念ながら流れ次第、船長見張つておる。16日午後6時、8時至りサウエースより少し風來り10時に至り追手となる帆はブンブン鳴つてゆく、かもめ鳴く声きけば船乗ヵ業もやめられぬ、雨は相変わらず降つている、地方へ來たのか、汐色赤く、でも山が見えず、顔色は青く。




(大正15年12月)17日
朝6時風は最も强くなり追手であるが鹽(註:塩→潮)が速いので舟進まず この汐目を越すには困難である、三崎出帆より今日で13日間船に出会う度に御馳走するので食料品の予定が違つてくる、風はノーイースより曇り勝、天氣の日は鰹節の仕事で休む間もなく働いている、何をいうても200貫以上の魚置場に困つておる。

17日午前0時かぢ横田、天氣予報南の風曇り雨模様あり、17日午後6時浪靜かにして風も少し穏やかになり汐上り汐に変つた 16日午後10時より17日午後6時までウエスに18時間走り、14日より計62時間走る、12日より流した時間、17日午後6時より78時間、西又八丈方面へ乗出す事になつて東へゆくし(註:志)、船長……はあるが勝手が不安のため金比羅神宮に依頼して御みくじを頂く事になり西のみくじによつて西に向う決心をしたのである、なにぶん助かるかどうか不明であるが思えば思えばこの舟は去年の秋のわづらいに三勝とちがつてはなを困る、一つそしづんでしもうたら こうした苦勞はあるまいもの、こらえてたべ半七さん、お氣にめさぬも知りながら、みんな私がりん氣ゆえ、そひふしはかなわずとも、おそばに居たいと辛抱してこれまで居たのがああお身のあだ、ああ、チンチンチンチン、よをーハアー、子までなしたる三勝どの、さぞかしわしをと、なげく折柄表よりハイ、後免下さいと…
昔はみな夫てじょ(註:貞女)のものばかり三勝半七、関取千田川、芸者松松吉ちん、小栗判官てるて姫、その次は船乗りの嫁さん連中、夫が板一枚下は地極(註:地獄)で働いている留守は尚更女氣の手紙くる度毎に飛びたつ思い、ありカたしと毎日朝晩手を合せておるに、何ゆえ今度はたよりがない、ほんにきこへぬ良榮丸、もしもこをしたその時は小供のセイヂンした上でかたき討ちたいでおくべきかと思えば船乗りいやになる。
(註:17日後半の記述は『艶容女舞衣』などから引用したものと思われる。1695年の美濃屋の遊女三勝と赤根屋半七の大坂千日前での心中事件を描いた浄瑠璃または歌舞伎劇。オカクロ特捜部は伝統芸能に詳しくないので間違っている可能性あり)




(大正15年12月)18日
午前1時より風なくして流れ7時に至り西風最も强くなり、船はドンドン流れ次第、18日午前8時西の凪ぎ、朝からイカリ1丁ほり込み、日中干物仕事、午後4時ヤカタに休み色々相談、金華山沖に居る見当、北の風睛れ、18日午後1時、午後12時に至り暴風となり、アンカ二丁ほり込み風の変るを待つ、およそ金華山沖にある見当、汽船に出會う見込なく思い切つて八丈島方面へ乗り出す相談を始む、なにぶん3、4ヶ月もかかる承知でいるのである、それでも途中で船に出會えば仕合せである。




(大正15年12月)19日
午前8時風西 浪高し、18日午前1時より19日午前6時までシメ30時間西風に流された、19日午後1時またもイカリ3丁放り込みこれでも船は立上る、5時に至り少し風が凪ぎ曇り勝。(註:金華山沖500海浬 八丈島の北500海浬の海上に船位を置いた海図が描かれている)
金華山沖より八丈島に向うという、小さい帆で幾日かかるやら思えば心細くなる、一ツ違つたら船ともろとも運命を終るのである、19日午後4時金華山沖にて(註:ここまでの一文が海図の側に説明書き)19日午後9時風ノーウエスとなり、夜の明けるを待つ。




(大正15年12月)20日
朝8時に至り風北にして穏やかなり 西風毎日强いゆえ思い切つてアメリカへ乗出すという太いことを船長が相談を致したところ、まだ落着かず兎に角アンカ3丁上ることにした、18日午前1時より20日午前6時まで54時間流された、責任のない人はどうでもよいが嫁小供のある人は実にお氣の毒である、また國許の方でも一方ならぬ大騒ぎである、何にしても約束であるとあきらめている。

親の罰が子に來る、昔々古人の伝、この12名は誠に因念の惡いものである、万一助かればそれこそ今度は皆大難を通り越し運勢朝の昇る如し、サヨナラ。
20日午後6時に至り睛天にして風北の嵐。




(大正15年12月)21日
午前までに78時間流した。




(大正15年12月)21日
午前7時より帆をまき上ぐ、風南にして波低し、サウ・エスに走り風につれて沖に出したり灘に入れたり とにかく西へ西へと行く方針である、21日午後4時風変わる流した、21日午後1時より追手にてウエス走る、營業中であれば流して●天氣である、この丁子(註:調子)で3日も吹けば必ず山が見えるはずである。




(大正15年12月)22日
午前6時まで18時間ウエスに走つた、午前9時まで21時間走る、22日午前9時より又も西風にして流れ始めた、イカリ2丁ほり込む、22日同じく流れている、22日 萬坊(註:マンボウ)という魚を突き取る。色々として喰い遊んでいた。




(大正15年12月)23日
午前5時 萬坊目方二十貫位(註:約75kg)どう考えても西へ船を出すこと出來ず東へ行つたらアメリカまで4ヶ月、然しここで船を待つも男らしくない、又船に出會うのもおそい。




(大正15年12月)24日
朝から晩まで遊び次第 流れ次第、12時萬坊一本、48時間流れた、22日午前9時より25日午後9時まで72時間流れ西に向う事出來ず、東に走ることとした。




(昭和元年12月)26日
午前アメリカへ乗り出すことに決定し錨を上ぐ、風を73に受けてノーイスに舵を向けて進みだした、26日11時。




(昭和元年12月)27日
午前6時。




(昭和元年12月)28日
流れた。28日午前6時ウエスに向けて追風ますます强く夜に入りてもなおも追風となる。この調子で10日も吹けばどこかの島へつくこと必定なり、また鰹10本もつる。これ皆 節(註:鰹節)にしておく、大喜び 米なくとも大丈夫。

沖の大海へ出たら浪も風もないこれはもう外國と日本の中程まで流れた、なんて色々なことをいうているうち南風少し吹きだしたのである、なにぶん先に立つ人も方針の取りようがないので頭をいためている、万一 助け船に出會うことかと口ではいわねど心の内、もうこの後は悪い事は致しません、また無理も申しませんと金比羅様にお願いして、これもきこえぬお札なら、一層海へぼーんと、いやいや思うまい思うまい、みんな私が心から、世のいましめに神様が御遊ばすことだとあきらめて下さんせアー、コリヤコリヤ、28日午前9時より午後10時まで13時間走る。




(昭和元年12月)29日
朝から錨上げ午前までノーイウエスに走り風変りササウエスに走り、これ皆風の都合で方向を変えたのである、朝からメバチ魚 午前11時まで10本釣り午後は風强く休業いたした、29日午後6時サウスに走り29日午前6時より30日午前6時までサウスへ24時間走る、同6時まで。




(昭和元年12月)30日
同じくサウスへ走り上難へ●んでいる予定であるが沖へ出ておるかもしれん、30時間走り。




(昭和元年12月)31日
36時間サウスへ走り31日午後4時まで4時より流した、明けまして御めでとう、年玉の御壽(註:御寿)を幾千代かけて御祝納め候也。




(昭和2年1月)大正16年1月元旦 (註:昭和への改元を知らず)
計流れ280時、ウエス166時元日のこととて赤飯にコーヤの寀で御めでたい御祝を濟まし、色々思い思いに話して夜に入った、午後7時 風靜かになり、流した。




(昭和2年1月)2日
ウエスへ走り、午後3時よりウエスに走りはじめた。




(昭和2年1月)3日
サウスへ走り、お正月3日間天氣良好にしてめでたく終り、舟は流しおる。




(昭和2年1月)4日
午前6時より走り出し、午後2時になり流した、天氣にて天水をとり(註:雨水の採取)、風は石 どうしても方向の計が見当がつきかね  なんと考えてもいたし方ない、時節を待つことにして5日流した。




(昭和2年1月)6日
同じく流した。




(昭和2年1月)7日
朝から東走り。




(昭和2年1月)8日
朝からノース走り午後6時まで12時間約60哩(註:約96km)走り。




(昭和2年1月)9日
午前6時よりサウス走り変更して流した。




(昭和2年1月)10日
午前6時よりイス走り。




11日
魚釣りて流した。




(昭和2年1月)12日
午前6時ノース走り。




(昭和2年1月)13日
同じくノース走り50哩(註:約80km)




(昭和2年1月)14日
午前より6時までサウス走り。




(昭和2年1月)15日
午後6時までサウス走り12時まで。




(昭和2年1月)16日
午前6時よりノース走り。




(昭和2年1月)18日
は午後より乗込み。




(昭和2年1月)19日
流した。




(昭和2年1月)20日
サウス走り。




(昭和2年1月)21日
流。




(昭和2年1月)22日、23日、24日
流。




(昭和2年1月)25日
イース走り5匁目(註:約18.75g。1貫=3.75kg 1匁=3.75g。以降重量注釈省略)の魚釣り大喜び 祝つた。




(昭和2年1月)26日
流した。




(昭和2年1月)27日
ウエス走り外國通に出會い燒火で信號せしところ、見えざりしため行き去つた、午後9時また流。




(昭和2年1月)28日
睛天にしてイース風少し走り●に向つて汽船の航跡を走つている、何というても魚一尾も食わないので困つている、27日西が吹くは吹くは、船長始め皆みずから覚えてはじめてであるとて夜も十分に眠り良、アンカ3丁ほり込ヨーヨー床についた、28日流した、萬坊魚3枚釣り。




(昭和2年1月)29日
朝からイース走り。




(昭和2年1月)30日
午前三時半帆柱の中間折り、またも西風に流した。




(昭和2年1月)31日
イス走り90哩(註:約144km。1浬=1哩=1マイル=3.927km。以降距離注釈省略)




(昭和2年)2月1日
イス走りにて追手、魚一尾釣上 今晩の御馳走にする。




(昭和2年2月)2日
午前9時までイス100哩走り。




(昭和2年2月)3日
50哩走り午前10時まで、旧正月にて めでたい御祝、睛天にして風なく ただ汽船を待つのみ。




(昭和2年2月)4日
イス走り追手にて午前6時90哩。




(昭和2年2月)5日
午前6時まで70哩。




(昭和2年2月)6日
午前6時まで70哩イスサイス




(昭和2年2月)7日
東風午前0時より流し午前12時よりイス走り




(昭和2年2月)8日
午前一時流。




(昭和2年2月)9日
風なくして流した。




(昭和2年2月)10日
戊命日は午前6時サウス走り。




(昭和2年2月)11日
午前10時魚釣上げ約5貫目。サウス走り凡そ40マイル午後1時より流し。




(昭和2年2月)13日
午前6時まで、寺田君は5日より病氣でいたが14日間にて全快した。13日午後6時。




(昭和2年2月)14日
少し小風にて走り。




(昭和2年2月)15日
流した。




(昭和2年2月)16日
サウス走り五十マイル。




(昭和2年2月)17日
イス走り、朝6時魚釣上げ午前11時5貫、6貫の魚3尾釣上げ目出度く笑う、その皆の騒ぎ実に何にたとえることも出來なかった。17日は午後4時まで40マイル。




(昭和2年2月)18日
イス50マイル走り。




(昭和2年2月)19日
イス走40マイル。




(昭和2年2月)20日
イス走り70マイル。




(昭和2年2月)22日
イス走り。




(昭和2年2月)23日
サウス走り24日サウス走。




(昭和2年2月)25日、26日、27日
イス走り。




(昭和2年2月)28日
終り。




(昭和2年)3月1日
ノース走り。




(昭和2年3月)2日
イス走り。




(昭和2年3月)3日
イス走り。




(昭和2年3月)4日
イス走り。

謹賀新年 神戸市再度筋38の2 岩本寅次郎様 良榮丸にて井澤捨次。




(昭和2年3月)5日
本日朝食にて料食なし。(註:食糧の備蓄が切れる)


(昭和2年3月6日) 註:この日の日誌記載はないが、乗組員12名の連名で杉板に以下の文を書いた。 和歌山県西牟婁郡和深村 船主 細井音松(良栄丸)
乗組連名  船長 三鬼登喜造
機関長 細井伝次郎 友取 桑田藤吉
寺田初造 直江常太郎 横田良之助 井澤捨次
松本源之助 辻内良治 三谷寅吉 詰光勇吉 上平由四郎

右12名 大正15年12月5日神奈川三崎出発營業中 機関クランク部破れ 食料白米壹石六斗にて今日迄命を保ち汽船出合ず何の勇氣も無くここに死を決す。大正16年新3月6日




(昭和2年3月)9日
細井傳次郎病氣のため死亡す、直江常太郎も3月7日頃より床を離れず、吾らも身動きできぬ、大鳥一羽釣り上げ。




(昭和2年3月)10日
西の風睛なるか流舟とす。




(昭和2年3月)12日
サメ1尾釣り上げ、本日正午 直江常太郎病氣のため死亡す。




(昭和2年3月)17日
朝のうち風なきゆえ帆の手入致す流す、井澤捨次死亡す。(註:伊澤は数日前までの当日誌を書いていた筆者。以降は松本源之助の手による記述)



(昭和2年3月)22日
オットセーが船の側に浮き上りしゆえ 皆再びあまり沖で無いとの意見である、辻内7日前より病氣。




(昭和2年3月)27日
西南の風雲、風はやや止まりしが風惡しき故流す、本日寺田、横田両君死亡す、大鳥一羽釣る。




(昭和2年3月)29日
北北西の風雨、午前3時より南々東に走り風强きため4マイル平均位、桑田藤吉 午前9時死亡、三谷寅吉夜間死亡す、サメ一本釣上げる。




(昭和2年)4月1日
西北の風雨後曇、風やや强きが惡いため流す。




(昭和2年4月)2日
依然强し。




(昭和2年4月)4日
流す。




(昭和2年4月)5日
西風睛る浪靜流す。大鳥を船長一匹突き晩食の御馳走になる。




(昭和2年4月)6日
かねて病氣致しおりし辻内 午前0時頃病死す。




(昭和2年4月)14日
風西北睛風なくして流す、サメ一本釣る、詰光勇吉君午前10時死亡病死。




(昭和2年4月)19日
病氣なりし上手君午前死亡す。




(昭和2年4月)23日
帆惡しきため流船のまま帆修す、サメ一匹出る。




(昭和2年4月)24日
NSの風曇、天氣だ。




(昭和2年4月)25日
浪靜風少し、帆悪しきため帆の手入す、船流す、淋しく汽船待つのみ、大鳥の馳走す。




(昭和2年4月)26日
NNWの風睛、帆の修理出來る、小生始めて生れて船の帆柱に登り死物狂いにてヅロード・ブロツクを直す、さめ釣あぐ。




(昭和2年4月)27日
睛天、帆捲き上げたるも風なきため帆巻きたるまま流す、薪こしらえる、嵐になる、140日も船世帯ゆえ吾ら二人も活氣なく、ただ時のくるを待つのみ。




(昭和2年4月)29日
天水をとる。




(昭和2年)5月2日
午前より午後6時 小生も病氣ゆえ一人にて舵取り苦しいが生命にかえられぬため次第当直す。




(昭和2年5月)5日
NNW風、午前中風惡く流船す、午後2時より北風强くなる南に走る。




(昭和2年5月)6日
船長大病となる。




(昭和2年5月)7日
西南の風强いが流船我もかねてのカツケ病(註:ビタミンB1の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患。心不全によって下肢のむくみが、神経障害によって下肢のしびれが起きることから脚気の名で呼ばれる。症状が重くなると歩行に困難をきたす。長い航海によって食事が偏り発症したもとの考えられる。ビタミンCが欠乏すると壊血病になる)のため、正午より食事もとれぬ位になる小便にもゆけぬ。




(昭和2年5月)8日
西南の風强い流す、左手も病氣身動きできず。




(昭和2年5月)9日
曇、風强し、帆を巻いたまま流す、二人とも病氣。




(昭和2年5月)10日
曇、北西の風、風强く浪高し、帆を捲きあげたるまま流船、船は舵取りなしに走りつつある、二人とも病氣。




(昭和2年5月)11日
曇、北西風、風やや强く浪高し、帆巻き上げたまま流船す、南々西に船はドンドン走つている、船長の小言に毎日泣いている、病氣。




以降絶筆。

 
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