獣人ヒバゴン ― 昭和の闇に消えた幻の怪物

スポンサーリンク
『謎の怪物あらわる!』奇怪なニュースが全国紙を賑わせた。
神話が息づく中国地方の山奥で直立二足歩行する獣人が目撃された、と。
目撃報告は増え続け、さまざまな人々が現地に押しかけた。
そして、怪物はある日を境にパタリと消えた。
謎の獣人、ヒバゴンは何処へいったか。

怪物のいた夏

1970年。日本、広島、夏。 中国地方の中央に位置する比婆郡西城町で奇妙な遭遇があった。

7月20日午後8時。同町油木地区に住む丸崎安考さん(当時31歳)が、仕事に使用する軽トラックで中国電力六の原調整池ダム付近を走行していた時のことだ。

突然、見たこともない生物が現れ、丸崎さんの目の前を横切った。 その生物は子牛ぐらいの大きさで、丸崎さんは一瞬ゴリラかと思ったという。

その怪物は丸崎さんの方をじっと見つめながら、ゆっくりと歩行し、やがてキリキリとヒグラシのなく森の奥へと消えて行った。どうやら谷に向かって下っていたようだった。

この遭遇事件の現場では、舗装された道路に残った濡れた足跡、そして怪物が向かったとおぼしき谷では、渓流に沿って草木が踏み倒されていたのを第三者が確認している。

これが最初の遭遇証言である。 もちろん、町内ではその信憑性についての議論があったが、丸崎の人柄から「何だかよく解らないが、何かあったのだろう」と判断された。
事件は続く。

丸崎氏の遭遇事件から3日後の7月23日、午後5時半過ぎ。 やはり中国電力六の原ダム付近に住む農家の今藤実さん(当時43歳)が自宅近くの墓地で草刈りをしていた時、なにか物音がした。

夕暮れの中になにかの気配を感じ、今藤氏が周囲を見回してみると、山の草深き茂み、そこに――怪物がいた。
森の端から、じっと、今藤氏を見つめていた。

最初は人間かと思ったが、明らかに違う。

今藤氏の証言によれば、邂逅したその怪物は人間の大人ほどの背丈で、、頭部は大きく、顔そのものは異様ではあるがどこか人間に似ていたという。
今藤氏は「たまげて、恐ろしくなって、家へ飛んで帰った」という。

この第2の遭遇事件は、第1の遭遇事件から3日後であることと、現場が1kmの距離であったことから、『同一の怪物』によるものと判断された。

やはり、その信憑性について疑う者もいた。

だが今藤氏は後の調査の際、現地でその状況を再現し、距離などの測定にも協力し、調査した役人に真剣な目で「本当に、目撃したのだ。信じて欲しい」と訴えている。

この遭遇事件を境に、六野原ダム周辺、農村である柚木地区一帯――具体的には3km四方で怪物の目撃が多発し、大騒動となった。

結局、この1970年の暮れまでに合計12件の目撃証言が寄せられている。

これらの目撃証言については、『私が愛したヒバゴンよ永遠に 謎の怪物騒動から40年 』に詳しい。これは一連の目撃事件の起こった翌年に西城町役場内設立された「類人猿係」通称ヒバゴン係の係長だった見越敏宏氏によって自費出版された冊子だ。

『私が愛したヒバゴンよ永遠に』から表紙のヒバゴン。書の副題が“ 謎の怪物騒動から40年”となっており、西城町類人猿係であった著者による2008年時点での事件の総括と思い出話が収められている。表紙は比婆山温泉に展示されているヒバゴンの油絵。目撃証言を総合して描かれた。画像出典:amazon[/caption]

『私が愛したヒバゴンよ永遠に』から表紙のヒバゴン。
書の副題が“ 謎の怪物騒動から40年”となっており、西城町類人猿係であった著者による2008年時点での事件の総括と思い出話が収められている。表紙は比婆山温泉に展示されているヒバゴンの油絵。目撃証言を総合して描かれた。
画像出典:amazon


怪物は比婆山にちなんで『ヒバゴン』と名付けられ、続発する事件を重くみた町役場により類人猿対策委員会が設立され、初遭遇が起こった翌年にあたる1971年に前述の『類人猿係』が設立されている。

この類人猿係は町の観光振興と、怪物の問い合わせに対する情報提供、現地案内、および目撃情報の収集と、探検隊への協力が主な業務とされた。

ヒバゴンの目撃情報の詳細が残っているのはこの類人猿係の功績による物が大きい。

興味深い事に、この類人猿係は『迷惑料』なるものを目撃者に支給した。
「目撃者にたいし、取材へのご協力とご理解を頂くため」とし、特別に予算を編成し町民の負担軽減にあてた。どうやら5千円程度が支給されたようだ。

これをして
金をもらえるってんなら、不届きモノが小金目当てに目撃証言をデッチ上げんじゃねぇの?
と資本主義に毒された我々はついつい訝ってしまう。

だが、(観光資源の金脈を掘り当てた役所の思惑はともかく)押し寄せるマスコミや好事家たちに町民が迷惑したのも事実であった。これは現代でも時をかえ場所をかえ、似たような営みが繰り返されているので特筆するまでもないだろう。

目撃証言が金により無理やりカキ集められた――かのような印象は見当違いで、目撃証言は役場によってしっかり精査された。

結局、騒動の収拾までに類人猿係に寄せられた目撃報告は100件を越え、設けられた基準をもとに精査された結果、そのうち22件33人による証言が『信憑性が高く、事実と認められる目撃証言』とされた。

その目撃証言から観察できる共通点は以下のようになる。

・身長が約1m50㎝~1m70㎝。体重が約80kg~90kgであると推定される。
・顔は逆三角形で目が異様に鋭く、ギョロッとしている。
・体の全体が薄い黒に近い茶褐色の毛に覆われている。毛髪にあたる体毛が逆立っている。
・動作は緩慢で、人間を恐れず、危害を加えてくる事もない。
これらの共通項は『精査の基準』とも関連し、ちょっとした疑問点が浮上するがこれに関しては後述する。

この特徴に目を通し、「なんだか、ヒバゴンって小さいな」と意外に思った諸兄もおられるかも知れない。

類人猿型未確認生物と言われて想起される他のUMA――いわゆる『ヒマラヤのイエティ』や『北米のビックフット』はおおむね2~3メートルとされており、それらと比較したとき、ヒバゴンの150㎝~170cmは何だかこぢんまりとしている。

『中央アジアのアルマス』や『中国の野人』などと同じ小型類人猿型UMAとでも分類すべきかも知れない。とはいえ、それでもニホンザルなどと比較するとかなり大きいが。

話は逸れたが、広島のヒバゴンは1970年の目撃以降、日本中にその名が知れ渡り、物見遊山気分の好事家やアマチュア研究家が大挙して西城町に訪れた。

この中には『新種発見』を目指した広島大学の学生探検隊や、高価なミニヘリコプターを用意したアマチュア調査団体などもいた。
もちろん、成果はなかった。

西城町では『ヒバゴン人形』や『ヒバゴン団子』、当時のヒット曲を元にした『ヒバゴン音頭』など、次々に便乗商品を生み出した。
ちなみに『ヒバゴン丼』なる丼飯は現在でも庄原市西城町で食べることが出来る。

名物ヒバゴン丼。 ご飯の上に山芋と山菜と鶏そぼろが

名物ヒバゴン丼。
ご飯の上に山芋と山菜と鶏そぼろが乗せられており、ワサビを加えただし汁をかけて、豪快にかき混ぜて食す。好評。
画像出典:JTB


発見された多数の足跡や諸説を燃料に、ヒバゴンは1970年代初頭に一大ウェーブを築きあげた。

だが、1970年代も半ばになると、目撃証言は激減し、加熱していたブームは一気に収束へと向かった。1975年には西城町がヒバゴン騒動終息を宣言し、それと同時に『類人猿係』を廃止している。

かくして、西城町に静かな夏が戻った。

その後も、おなじ広島県の久井町で『クイゴン』、山野町では『ヤマゴン』が目撃され、遠く岩手県では『ガタゴン』の足跡が発見された――が、これらは未確認動物好き界隈に分析されたり、議論されたりはしたが、結局ブームになることなくひっそりと歴史の影に消えていった。

ヒバゴンとは何だったのか。
いや常識的に考えて、ただの猿だろ」と冷静な意見を向ける諸兄もおられるだろう。

だが、情報を集めてゆくと、猿にしては説明できない点が多数浮上する。

ヒバゴンとは何だったか。
諸説の検証も含め、もう一歩、昭和のオカルトムーブメントに踏み込んでみよう。


sponsored link

フェアリーテイルは、さっき死んだ

常識的な諸兄の「いや猿だろ」という冷めた予断のせいか、同じ日本産UMAであるツチノコと比較したとき、ヒバゴンは扱いが小さい。

それは関連書籍などを探せば一目瞭然で、ツチノコは様々な書籍が出版され、懸賞金や村おこし素材として近年でも話題が尽きない。

一方のヒバゴンは寂しい限りだ。
いたって常識的な諸兄による「いや猿だろ」という半ば断定に近い推定のせいで、後追いの研究者、探求者が生まれていないせいかも知れない。

オカルトクロニクル特捜部は以前、合コンの場で女性に「ヒバゴンって知ってる?」と聞いたことがある。

彼女はツチノコは知っていたがヒバゴンは知らないと言う。
あろうことか「そういうの言う人、なんかキモイ」とまでいう。「なんだと! キモイのはお前だ! このメスヒバゴンめ!」と激高しそうになったが、それはいい。

やはり「いや猿だろ」という予断によってUMAとしての扱いが小さいため、知名度も上がらないのだろう。
ヒバゴンを町おこしに使っている庄原市のキャラクター図にしても右の通りであるのだ。

ひばごん

庄原市のゆるキャラ『ヒバゴン』
猿である。

猿の背後にいるのは同町のゆるキャラ『キョロやまくん』。キョロやまくん、キョロってます、かわいい。
画像出典:庄原市HP


庄原公式にも「いや猿だろね」ということになっているようで、諸兄は言うのでしょうね。
ほらやっぱ猿だろ

前から思ってましたが、どう考えても猿ですよ、猿

ケツ見ろよ、猿じゃん。猿だろ

うるさいな、猿だよ!

投げやりな冗談はともかく、詳しく調べれゆけば猿という見解に疑問が浮上するのも事実。

公式キャラクターではヒバゴンの尻がいかにも猿の尻になっているが、目撃者はこの『尻ダコ』と呼ばれるモノがヒバゴンには無かった事を証言している。

そして本人が「猿ではなかった。猿なら充分に見慣れてる」と繰り返し主張したにも関わらず、「いや猿でしょ?」「猿だったんでしょ?」と言われ続けたため、その態度に腹を立ててそれ以降、証言を拒否した目撃者もいる。

しっかりとした検証もせず、目撃者を罵倒ないし否定する事が知性の証明だと思い込む輩のなんと多きことか。

起こったことをありまのままに話すに、我々の言葉はあまりにも足りない。
それがゆえに、無理やり似たモノに例えたり、カテゴライズして誤解を生むこともあろう。ここは冷静に分析してみよう。

とりあえず、『ふるさとの四方山話 (芸備選書)』にヒバゴンについて特集した雑誌『げいびグラフ 第86号』の記事が再録されているので、それを元に地図を作成した。

スマホからは特に見にくいかもだがご容赦いただきたい。

hibagon004

これらは西城町類人猿係による『ヒバゴン騒動終息宣言』出される前年、1974年10月までの目撃例の集大成だ。
番号32番が1974年10月11日で公式に最後の目撃例となっている。

こうして見ると、意外と広範囲にわたって出没していたことがわかる。

しかし島根はなんだ。
どうなってるんだ。西城町を少し行けば島根県であるのに、ぜんぜんヒバゴンが訪れていない。島根県民は対ヒバゴン結界でも張っているのか。

一件だけ島根県下での目撃が報告されているが、なぜ広島県ばかり狙われてるのか、まるでわからない。

島根の結界はともかく、意外と足跡が多く発見されていることにも気付く。

ヒバゴンの足跡とされるもの。 正直、写真では足跡かどうかすら、イマイチよくわからない。 日本の謎と不思議

ヒバゴンの足跡とされるもの。
正直、写真では足跡かどうかすら、イマイチよくわからない。
画像出典:日本の謎と不思議大全


上記の画像では、類人猿係の資料に基づき足跡のサイズを『横15㎝、縦27~30㎝』としたが、15回におよぶ発見で得られた足跡のサイズには大きく幅があり、『横が7~23㎝、縦が14~30㎝』とモヤモヤするモノになっている。

足のサイズが多種多様という事実をして、真のビリーバーならば『ヒバゴンは多数いた!』と喜ぶかもしれないが、発見された足跡が本当にヒバゴンのモノか判断できない以上、我々に出来ることはモヤモヤすることだけである。もちろんイタズラも多数含まれるだろう。

「なんだよ! なんでいっつも足跡とか中途半端なモンしか見つからないんだよ! だいたい、ビッグフットでも足形の板で足跡作ってた罪深いオッサンがいたろ! どうせコレもソレだ! もっと痺れるような証拠はないのかよ!」
と諸兄はモヤモヤを通り越して、イライラするかも知れない。

諸兄が痺れるかどうかは別として、ヒバゴンは写真に収められている。

ヒバゴン騒動の末期にあたる1974年8月15日、午前8時5分すぎのこと。

西城町の隣町にあたる比和町在住の三谷美登氏が、母親と車で移動中庄原市濁川町の県道を走っていたところ、道路の中央で四つん這いになったり、二本足で直立したりして歩いている怪物に遭遇した。

車に気がついた怪物は近くにあった柿の木に飛びついた。
それがヒバゴンだと気付いた三谷氏は、車から降り、約7~8メートルの距離から写真を撮影した。

下の写真がその時のものである。

三谷氏の撮影したヒバゴン。

三谷氏の撮影したヒバゴン。

画像出典:日本の怪獣・幻獣を探せ!―未確認生物遭遇事件の真相


わからない。
そもそも、どこまでがヒバゴンなのかもわからない。

これが手元にある中で、もっとも解像度の高い写真であるのだが、それでもよくわからない。

事件史上初のヒバゴン写真は、こうした状況で撮影されたわけだが、当然ながら大論争が巻き起こった。

そして、専門家は写真が極めて不鮮明な写真であるにもかかわらず、被写体が怪獣でなくクマかサルであると、断定的なコメントを出したのである。さらに、実際にヒバゴンと遭遇した体験がある人々も、被写体の正体がヒバゴンかどうかに関しては否定的だった。

「あんなものじゃないですよ、私が見た怪物は。もっと鋭い目と大きくて真っ黒い鼻、異常に大きい耳を持った、ゴリラみたいなグロテクスなもので、あれににらみつけられたときは、鳥肌が立って手足が震えて、運転に支障をきたしたくらいです。私は山育ちでサルは見慣れていますから、写真に写っているあんな程度のものだったら、たまげやしないですよ」

たしかに不鮮明である。

この写真は現物からして不鮮明だったらしく、現物を目にした日本フォーティアン協会会長、並木伸一郎御大をして、「これだけでは何とも言えない」と感想を吐露されている。

上記引用で「ヒバゴンじゃねぇよks」と証言しておられるのは、写真撮影の2ヶ月前にあたる1974年6月20日にヒバゴンを目撃した太田氏である。

目撃からそれほど時間が経っていないこともあって、記憶や興奮は新鮮なのだろうと思う。

が、不鮮明な写真を掲げサルやクマであると断ずるのが不誠実であるのと同じに、「ヒバゴンでない」と断定することもまた然りではなかろうか。

さしあたって言えることは、この写真が何の証拠にもならない――ということ。これが大人の対応というモノだろう。

しかし、大人になりきれないオカルトクロニクルとしては、とりあえず画像の彩度やコントラストをいじくってみることにした。

すると、なにか――浮かび上がったような、そうでないような、だいたいそんな感じになった。

hibagon007d

こう?

どうだろうか。

なんだか、何が正解かもわからない。こういう写真から、人は自分の信じる『正体』を見るのかも知れない。

つまるところ、よくわからない。

その正体はなんだったのか。

サル、ゴリラ、チンパンジー、クマ。これらが正体であるとする説が大勢を占めたが、実のところ、そのどれらを正体と仮定しても齟齬が生まれる。
ゆえに『動物の専門家』たちの間でも論争があった。

ここで一連の動物説を簡単に見てみよう。




ニホンザル説

やはり猿だったんだよ、という説。ヒバゴンの容姿から、この説が最も有力視された。

年老いた猿が群れを離れて徘徊している所を目撃された――と言うことになっている。

だが、ヒバゴンは最低でも150㎝の身長があったとされ、それほど大きく成長したニホンザルは日本では現時点を持っても確認されていない。ゆえにサル説では『大型化した』という説明が付け足される事になる。

だが山暮らしに慣れている目撃者たちが口を揃えて「猿ではなかった」と証言しており、「猿だった」と決めつける外部の人間に憤慨してさえいる。

加えて、ヒバゴンは二足歩行でゆっくり歩き去ってゆく事が多かったが、ニホンザルは基本的に移動するときは四本足で歩き、二足歩行はしない。
騒動初期である1970年の目撃例では、とくに猿を否定する要素が強い。


ゴリラかオランウータン説

中~後期になると「ゴリラのようだった」と証言する目撃者が増えてくる。この頃になると、拳を地面につけて歩くいわゆる『ナックルウォーク』をする所を見たとする証言も出てくる。

もしかしたら、動物園から逃げ出した大型類人猿が比婆山周辺に逃げ込んだのでは? という至極まっとうな推測もあったが、近隣の動物園から動物が逃げ出した事実はなかった。

一連の騒動以前に、密輸入された30頭ほどのオランウータンが行方不明になっているという新聞報道があり(註:大元のソースは確認できず、時期も解らない。雑誌『花も嵐も』1991年9月号に「ボルネオから密輸入された30匹――」とある)それらが目撃されたのでは? という説もある。

だが、西城町周辺の年間平均気温は摂氏13℃未満であり、通常ゴリラやオランウータンなどの温かい地域に住む動物は冬を越せず死に絶える。

つまり、4年にわたって比婆山周辺をうろつくことは常識的に考えて不可能である。


クマに違いない説

クマであれば二足で立ち上がることも可能で大型動物でサイズ的にもあり得る。が、やはり移動の際、クマは四足歩行する生き物だ。

目撃者と遭遇したため、威嚇のために二本足で立ち上がった――というならわからないでもないが、ヒバゴンは別段目撃者を威嚇するでもなくただ二足歩行で歩き去っている。
そして西城町周辺ではクマの出没は皆無だった。

ツキノワグマが中国山地にも生息していることは知られているが、『顔』の形が類人猿とは大きく異なる。

騒動後期の目撃例の幾つかは、クマかも知れない。





こうしてそれぞれの説にヒバゴン像と上手く嵌らない部分が存在し、このパズルはいまだに解けていない。

もちろんヒバゴン目撃者の中にも自らの見たモノを冷静に分析した者もいた。

騒動末期の1974年7月15日の午前8時20分ごろに怪物を目撃した平田キミヨさんは言う。

「良く聞くヒバゴンかと思ったが、あれはサル。私をギョロリと見た時の歩き方といい、まったくサルと同じ。トシをとった大ザルのようだった」
そんな声がある一方で、やはり目撃者の谷平覚さんは言う。
「いやいや、サルじゃねえ。ワシははじめ、後から見た。サルならタコがある。ソレが全然見えなかった」
資料から、ある目撃者の少年の話を引用する。

小学生の子どもといっても、貴重な目撃者であり、きまじめな子どもであると小学校から聞きましたので、目撃基準の判断としました。
目撃後の出来事と感想を聞きました。

「学校へ行ったらみんなが言うたんよ。お前は嘘を言うとるんじゃないか、なんか他の生き物を見てびっくりして見間違ごうたんじゃろう」 と、なにか悪者みたいな扱いをされたと聞きました。

「僕は見たことを正直に話したのに。僕は何か悪いことでもしたの? あんな話をしなければよかったよ。もうあの話はしたくないよ」 と、彼の言葉から痛切な後悔の念が感じられたことは、残念でたまりませんでした。
一人でも良いから、彼の目撃したことを真剣に耳を傾けて聞いてやれなかったことを悔やんでいます。

これを機に、著者は「目撃された方の立場に立って、目撃情報は真摯に慎重に扱うべき」と心に刻んだという。

こうして収集された目撃証言であるが、全体を通して俯瞰してみると、どうもヒバゴンのイメージに一貫性が感じられない。これは『ヒバゴン騒動』と『ヒバゴンという存在』を分けて考えるべきなのかも知れない。

現存するヒバゴンを扱ったwebサイトで最も権威ある『謎の怪獣 ヒバゴンはどこへ行ったのか?』さんでも、4年にわたるヒバゴン騒動を三期に分けて考えておられる。


かくして現在に至るまでヒバゴンが何だったのか、ヒバゴン騒動が何だったのか、わかっていない。

『未知の猿人説』
『忘れられた山の民説』
『山に捨てられた奇形児説』
『エイリアン・アニマル説』
『町の陰謀説』
『イタズラ説』――浮かび上がったそれらの諸説の中に、真相に迫ったモノはあったのだろうか?

次ページではそれらの諸説を紹介しつつ、歴史的な角度からヒバゴン伝説に光を当ててみよう。

タイトルとURLをコピーしました