『ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で』より
部屋の広さは20平米。6畳ほどの小部屋。
それが現実のダーガーが過ごした場所だった。
部屋にある物といえば、ひどく旧式のタイプライターや学童用のお絵描きセット、無数の安絵の具、壁に貼られたおびただしい量の切り抜き。
天上近くまで積まれた新聞紙や雑誌の束。壊れた玩具や、ボロ靴。安物の宗教装飾品。消化薬の空き瓶。
部屋にはキッチンもない。
「
部屋にはベッドがなかった」とする資料も見られたが、ベッドはあった。だがその意味を成していなかったのは確かだ。資料が大量に積まれ、寝るどころの話ではない。
ダーガーは主に作業机に腕枕か、モリスチェアで眠っていたようだ。
創作こそが彼の『仕事』であり、それに全てを注ぎ込んでいたことが残された部屋からもうかがえる。
ダーガーの生前、彼の部屋から無数の人物の声が聞こえたとする証言がある。
アパートの住民はその声を聞きながら「来客が多いね」と冗談を言い合った。冗談というのも、かの部屋に来客など無いことを知っていたからだ。
ダーガー自身が声色を変えて、様々な人物を演じ、会話している――創作活動をしていたと判明している現在ではそれほど奇妙な事とも思えないが、『謎の老人』でしかなかった当時は気味悪く思う者もいただろう。
話しかけても要領を得ないし、ゴミ捨て場をうろついて、ゴミまであさったりする。
現代なら警察に通報される行いであり、もちろん当時も不快に思われていた。
だがアパートの大家であるネイサン・ラーナーだけはダーガーに寛容で、ダーガー自身もネイサンにだけは心を開いていた。
あるときネイサン夫妻によるダーガーの誕生日パーティーが開かれた。
そこでダーガーはダーガーなりに返礼をしたかったのか、優しい夫妻に歌を披露した。それは『ブラジルの子供の歌』だったという。
それはなかなか上手く、ポルトガル語の歌詞だったと言うが、ネイサンの妻、キヨコは「
いかにもポルトガル語に聞こえましたが、自分でこさえたのでしょう。ならうチャンスはなかったはずですから」と述懐している。
パーティーに参加した、ただ2人の客、つまりネイサンとキヨコには好評だったようだ。
奇妙な創作技法。
ゴミ漁りについて当時は奇行とされていたが、現在ではそれが資料収集のためだったと判明している。
ダーガーはそこらじゅうのゴミ捨て場に赴き、捨てられた新聞、雑誌、漫画や広告を探していた。そしてめぼしいモノを見つけると、持ち帰り、必要な部分を、切り抜き、分類し、コメントをつけ、スクラップした。
それは、どのような資料か?
火事や竜巻、植物の写真、カモシカの写真など様々ではあるが、もっとも収拾に力を入れていたのは少女の写真だ。これは『手当たり次第』といっていい。最終的にはそのストックが数千枚にも及んでいたという。
ダーガーは絵が下手で、自分の思い通りに絵が描けなかった。
理想とするヴィヴィアン・ガールズが――美しく、繊細で、純粋な彼女たち――が脳裡に存在し、自由に動き回っているのに、その
理想の彼女たちをどうしても二次元に落とし込む事ができなかった。
そこでダーガーは『コラージュ』という手法を導入した。
美術なり芸術なりの教育を受けていないダーガーであるからして、これは『編み出した』と言うべきであるかも知れない。
拾い集めてきた少女たちを紙に貼り、彩色し、風景などを描き込む。こうしてダーガーは『非現実の王国で』のワンシーンを再現することに成功した。
中央に少女のブレンゲンを配したコラージュ作品。下記のダーガー注釈にある取消線は原文ママ。
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ダーガー本人による注釈:キラキラ輝くブレンゲン。食用。ボイ・キング諸島。一匹は年若いタスカホリアン。もう一匹は人の頭をしたドロテリアン。
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画像出典:『ヘンリーダーガー 非現実を生きる』
しかし雑誌なり写真なりから借用した既存のモチーフを素材とする創作方法では、『理想の少女』たちを再現するに限界があった。
当然ながらポーズは決まっているし、第一、いちど貼り付けてしまえば、その写真は二度と使用できなくなる。
そうして、ダーガーは新しい手法を編み出した。
トレースだ。
雑誌イラストなどのモチーフにカーボン紙やワックス紙を当てて写し取り、それをさらに紙へと転写する。
これはダーガーの創作に革命的な進化を与えることとなり、トレースは少女だけでなく、兵士や動植物にまでおよんだ。
そのまま写し取るだけでなく、服を改変したり、角を付け足したり、男性シンボルを付け加えたりと、この時期にダーガーの絵は以前からの制約から自由を得ている。
気に入ったモチーフは繰り返し作品に使用され、紙が破れてしまうほど何度も描きなぞった。
トレースの行程。
『The American Magazine』1947年7月号の表紙を元にトレースしている。表紙の裏にはカーボン紙の青い線が確認できる。
ダーガーは自分の絵に落とし込むにあたり、着衣を取り去り自分の想像に近づけようとした。
画像出典:『美術手帖』(2007.5号)
最近、様々な方面で『トレパク』という単語が聞かれるが、現代に照らし合わせれば、ダーガーの作品などは炎上要因に事欠かない。
絵に登場する少女はもちろん、兵士、木や花や動物、そのほとんどがトレースないしコラージュだからだ。
近年のトレパク炎上に関して言わせてもらえば、パクリ元を見つける技能が凄まじいと感心してしまう。よく見つけるものである。
ちなみにオカクロのアイキャッチ画像などは事件写真などからのコラージュとトレース、モンタージュが多分に含まれるが、どうか内緒にしておいていただきたい。
冗談はともかく、ダーガーはトレース技法を得たことにより、創作の幅を拡げた。
これにより、同じポーズをしたヴィヴィアン・ガールズが画面に増え、過剰に『増殖』している絵も見られる。
だが、やはり限界はあった。
イラストや写真をトレースして写し取る技法では、その『大きさ』までは変えられなかった。あくまでも
オリジナルのサイズに準じたモノしか絵に利用できない。これはどうしたものか。
そうして1940年代半ば、ダーガーは新たな技術を発見する。
近所の写真屋に『切り抜き』などの素材を撮影して貰い、それを
現像時に引き伸ばすという技法だ。
これならば、ある程度、必要な大きさまで対応できる。
これはダーガーの創作技法の最終到達点であったといえる。
これ以降、幅3メートルを超える作品が生み出されてゆく事になる。
だが、ことトレースにしてもコラージュにしても、くたびれるほどの時間と、凄まじい労力と、資金のかかる仕事だった。
時間と労力はともかく、資金に関しては薄給のダーガーには余裕がない。
最終到達点である『写真の引き伸ばし』は特に、である。
生活できるギリギリのラインまで資金をつぎ込んでも、年に数枚ほどプリントするのが限界だった。
(
註:伝わる話によると、ダーガーは得られた年収の30%ほどを写真の現像につぎ込んでいた。他にも絵の具、紙などの出費があったであろうことを考慮すると、その創作への執心ぶりがうかがえる)
ゆえにダーガーは慎重に素材を吟味し、特に重要なモチーフだけを選んで引き伸ばし依頼をしていたようだ。
少女のアレ問題
永遠の謎と言われる『少女にアレ問題』について、世間的な評価はこうだ。
「
ダーガーは、少女と少年の違いを知らなかった」
実際に、ダーガーは生涯にわたって女性と関係を結ぶことがなかった。したがって、女体にも付いていると思っていたんじゃないか、という話だ。
だが、反論も少なくない。
ダーガーの作品に登場するすべての少女に付いているワケではないからだ。
「
少女たちが戦士であることを意味するシンボルである」
という話もあるが、よくわからない。
『非現実の王国で』の作中、ヴィヴィアン・ガールズが少年に変装し、ボーイスカウトの少年が実は少女だった――などという展開もあるそうで、ますますよくわからない。
ダーガーが亡くなった今、解釈だけが存在する。
これをして、ダーガーのセクシャルな部分に触れる論者たちがいる。
『ロ○コン』であった、『サディスト』であった、などという。それだけならまだしも、もっと踏み込んだ事を言う者もいた。
「
ダーガーは同性愛者だった」と。
孤独なダーガーだったが、ただひとり友人がいた。
年上のウィリアム・シュローダーだ。
ダーガーとシュローダー(左)
駅舎を模したスタジオセットにて。
画像出典:美術手帖(2007.5号)-©Kiyoko Lerner
ダーガーが20代の中頃に知己を得て、1959年にシュローダーが亡くなるまで親交は続いた。
週末によく2人で出かけ、『
子供たちを守護する会』なる団体を立ち上げる。会員は(
現実世界では)彼ら2人だけだった。
シュローダーは1956年にシカゴからテキサスへ転居したが、ダーガーがマメに手紙を書き、英語の書けないシュローダーの代わりに彼の姉妹が筆をとり、最後まで文通は続いている。
このシュローダーとダーガーの間に、同性愛関係があったというのだ。
どうも、ダーガーについてはそういったセクシャルな憶測が多く、精神科医の先生も「
ダーガーが自分の作品でマ○ターべーションに耽っていた」などという。「
(その確率は90%ぐらいある)」、とわざわざカッコ付きでいう。
精神科医の人たちはすぐにセクシャルなものに話を結びつけがちであるが、どうだろうか。普段からいかがわしいことばかり考えているから、そういう発想に至るのではなかろうか。我々を見習って欲しいものである。
アーロンバーグ・ミステリー
ダーガーの作品を語る上で、重要な位置を占めるのが『
アーロンバーグの写真紛失事件』だ。
これは、ダーガーが大事にしていた少女の写真が紛失してしまい、それが小説のプロットにまで影響を及ぼすというメタ的な出来事である。
この写真の少女は1911年にシカゴで誘拐され、殺害された5歳のエルシー・パルーベックだ。
ダーガーはシカゴ・デイリー・ニュース紙に載った彼女の写真を気に入ったようで、大事に保管し、作中には彼女をモデルとしたアニー・アーロンバーグを登場させている。
だが、その写真を紛失してしまい、ダーガーは慌てた。
祭壇を作り、写真が戻ってくるよう必死で神に祈った。
この紛失をして作中では『グランデニアとの戦争の命運を握る出来事』として紹介されている。現実の出来事が小説のプロットに影響を与えたのだ。
必死でその写真を探し、毎日神に祈ったものの、残念ながら結局写真は戻らなかった。
ここで、ダーガーは神を呪った。
以降4年間、ミサには顔を出さなくなり、非現実の王国内ではヴィヴィアン・ガールズを初めとする子供たちに、凄惨な処遇を与えた。これは報復に近いものだ。
ダーガーの怒りに呼応したかのように、グランデニアンたちは勢いを増す。
少女たちは惨殺され、グロテスクな描写が増える。
――――
ダーガーによる注釈「ジェニー・リッチーにて。ノーマ・キャサリンを経て、裸の子供たちは凄まじい炎熱に焼かれる最悪の責苦に処せられる」
「ヴィヴィアン・ガール・プリンセスたちは、身の毛もよだつ子供たちの虐殺を目撃させられた。ヴィヴィアン・ガールズはここに描かれていない」
――――
画像出典:『ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で』より
このような酸鼻を極める絵が数枚残されている。
アーロンバーグの写真が見つからないまま、
非現実の世界は惨禍を被り、やがてヴィヴィアン・ガールズにも作中で言及される。
「アーロンバーグ・ミステリーは奇妙だわね」とガートリュード・アンジェリンは言った。
「いまだに解決していないしこの謎が解決しなければ戦争に負けると言われていたのに、私たちは負けてないわ。(中略)いったいどうやったら小さな女の子の殺人事件がキリスト教軍の敗北に繋がるのかしら。そんな話、正気の沙汰じゃないわ」
『ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で』より
そして、写真を紛失したダーガーは作中で、ヴィヴィアンガールズに名指しで「マヌケ」と非難される。
このメタ的な展開は、ダーガーの日記にまで影響を及ぼした。
ダーガーは自室にアニー・アーロンバーグの幽霊があらわれ、色々と諭されたと書いている。これをして、「
ダーガーはこのあたりから、現実と空想の境目が曖昧になっていた」と主張するものもいる。
時折、自分の事を『
ブラジル生まれのヘンリー・ダルガリアス』と名乗っていたというキヨコ・ラーナーの証言もある。これはダーガー自身が現実と非現実の間で混乱していたことを示すのかも知れない。
ダーガー自身によって書かれた自伝も、最初のページこそ事実が書かれているが、後半は全く事実と異なることが指摘されている。現実から非現実の世界へと逃げ込むために、自分自身をもキャラクター化したのではないか――と。
永遠のノーマンズランド
ヘンリー・ダーガーは幻想を追い求め、理想の物語を作ろうとした。
だが、皮肉にもそれを手助けしたのは、まぎれもない現実から生み出された雑誌や新聞、もっと言えば、ゴミ捨て場に捨てられる――現実が生み出した残りカスだった。
ゴミ捨て場から救い出された少女たちは、ダーガーによってもう一度色彩を吹き込まれ、非現実の王国で第2の生を得る。
『アスペルガー障害の芸術的創造性』と題して、白百合女子大学の木部則雄教授がダーガーの精神分析を行っている。
ダーガーの育った環境やパーソナリティーから、彼がアスペルガー障害であったと診断できるそうだ。きっとそうなのだろう。
だがおそらく、ダーガーは決して好きこのんで『孤高』を選んでいたワケではない。結果、そうなったというだけだと。
ダーガーは30代半ばの頃、養子をとろうとして何度も、何年にもわたって、神父に養子縁組を嘆願している。これは結局叶わなかった。
唯一の友人、シュローダーに関しても、出かけるときの出費はすべてダーガー持ちだった。そして彼もダーガーの元から――シカゴから去った。
浮浪者のような風体も人を遠ざける要因の1つになっていたようだが、キヨコ・ラーナーの証言によればダーガーは自分に出来る範囲、お金の許す範囲で身なりには気を遣っていたという。
愛情をそそぐ対象を探し、いつも結局見つからず、『非現実の世界』に没頭したのではないか。
そして、その埋められない孤独という穴が、ダーガーのモチベーションになっていたのではないか。
偉大な哲学者や芸術家が書き残すとおり、孤独こそが傑作を生み出す母となったのかもしれない。
ダーガーの部屋にあった少女たちの写真。
気に入った写真は台紙に貼り、額縁におさめ、壁に飾った。
>
筆者の知る限り、このオカルト・クロニクルの訪問者は、プロ、アマを問わず創作家が多い。ライターやイラストレーター、アニメーター。少年誌に連載を持つ漫画家の方もいれば美大を受験する学生、同人活動にいそしむ者も。(いつも拡散ありがとうございます)
では我々はダーガーの如く創作へのモチベーションを保てるだろうか?
誰にも見せず、誰にも褒められず、誰にも持ち上げられず、ひたすらに創作し続けることができるだろうか。
きっと無理だと思う。
「
見られなきゃ、無いもおなじ」という人もいるだろう。
神だって、自分の園を褒めて欲しいから人間を作ったんじゃないかとオカクロは思う。
だが、ダーガーは人生の全てを使って読者のいない小説、鑑賞者のいない絵を描き続けた。
様々な資料で「
ダーガーは現実と非現実の境界が曖昧になっていたかもしれない」と指摘されるが、はたしてそうだろうか。
明確に幻想があったからこそ、ただひたすらに、自分の人生の全てを、理想の全てを『非現実の王国で』に詰め込めたのではなかろうか。そういう意味でダーガーのそれは創作というよりも、創造、あるいはセラピーだったように思えてならない。ここが我々とダーガーを分かつ高い壁なのかも知れない。
君は信じるだろうか。たいていの子供たちと違い、私は大人になる日を決して迎えたくなかった。
大人になりたいと思ったことは一度もない。いつも年若いままでいたかった。
いまや私は成人し、年老いた脚の悪い男だ。いまいましくも。
ヘンリー・ダーガー『私の人生の歴史』より
ダーガーは現実の自分を客観的に観察していた。
だからこそ作品に永遠の若さを求めた。ヴィヴィアン・ガールズにしても『永遠に年をとらない』という設定がある。
ダーガーの作品群すべてに、セルフ・カウンセリングの役目があったのではないかと思う。
アウトサイダー
現代において、ヘンリー・ダーガーという作家は、『
アウトサイダー・アートの第一人者』と表現される事が多い。
なんだか、この表現にどこか居心地の悪さを感じてしまう。
アウトサイダー・アート、とインサイダーの人たちが評する。そこに違和感を感じる。
なんのことはない分類だけの話かもしれないが、芸術の『内と外』は誰が決めるのだろう。
芸術教育を受けたりアカデミズムに足を踏み入れなければ、『外の人』なのか。
ダーガーが亡くなり、作品が評価されてなお『君は外の人』と疎外されているように思えてならない。
芸術に疎いので浅はかなことを言うかもだが、むしろ、金銭を絡めず、報酬もなく、どうしようもない衝動と、枯れない情熱、折れないモチベーションによって創作されたダーガーの作品こそ稚拙とはいえ真のアートと言えるのではないか。
檻の内側と外側を見誤っているのではないか。閉じ込めていると思い込んでいるが、そのじつ自分たちが閉じ込められているのではないか、と。
生意気言ってすいませんでした。
ともかく、世の中には、一見奇妙な行いに執心する人がいて、多くの場合彼らは変人だの奇人だのと呼ばれる。
30年かけて別れた婚約者のために城を造った
エドワード・リーズカルニン(サイト内リンク)や、自分を皇帝だと名乗り人々の失笑と愛情を受けた
ノートン1世(サイト内リンク)。
そして、誰にも知られずに世界最長の物語を創作したヘンリー・ダーガー。
彼らは現代に生きる我々に強烈な印象を与える。人間という生き物の不思議を教えてくれる。
1973年4月13日。
奇しくも自らの誕生日の翌日、ヘンリー・ジョゼフ・ダーガーは息を引き取った。81歳だった。
『非現実の王国で』は最後まで書き上げられていたが、終わり方に納得できなかったのか、清書はされていない。
残されたモノは大量のテキストと、300枚を超える絵。
旧式のタイプライター、学童用のお絵描きパレット、学童用の絵の具、学童用の絵筆。無数の資料。
ダーガーの絵の1枚は2500万円の値が付き、ダーガーの部屋は『中身』だけ引っ越しされた。
美術誌で特集され、ドキュメンタリーも撮られた。
生前、とられた写真は3枚だけ。
生前、誰も知ろうとしなかったダーガーを、いまは多くの人が知ろうとしている。
生前、誰にも見せなかった作品が、いまはこうして多くの人の目を集めている。
アウトサイダーが、アウトサイダーのまま評価され、疑問は疑問のまま残される。
ダーガーは『永遠の子供』ではいられなかった。
だが、彼の作品のなかでヴィヴィアン・ガールズは永遠を手にした。これが、ささやかなハッピーエンドと信じたい。
後年、ダーガーの眠る墓には「
少女たちの守護者」と墓碑銘が刻まれた。
その生き様は不器用すぎたかもしれない。だがきっと、後世を生きる創作家たちに、勇気を与え続けるだろう。これまでも、これからも。
最後に、ダーガーの晩年の日記から引用してこの項を終わる。
そしていまや、壊れた膝のせいで、長い絵の上に、描くために両足で立つこともとても難しい。
それでも私は挑み、痛みがやってくると座り、また挑む。
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