廃船のような船体。甲板に散らばる海鳥の羽。そして遺体。干涸らび、白骨化した者、腕や足を欠損した者。失われた腕を探せば、コンロに乗せられた石油缶の中にあった。
人食い船、発見さる――各社紙面に記事が躍った。
目撃者は言う。いつだか我々は遭難船だと思い近づいたが、いくら呼びかけても乗員は虚ろに立ち尽くし反応しなかった。だから馬鹿らしくなって立ち去ったのだ――と。
海は伽藍よりも
1927年。和暦昭和2年。世界は良くも悪くも賑やかだった。チャールズ・リンドバーグが大西洋を飛行機で横断してパリジャンから拍手喝采を浴び、大正末期の日本では関東大震災から復興した帝都東京をモボ・モガが闊歩し、その喧噪から少し離れた田端435番地で芥川龍之介がひっそりと服毒自殺をとげた。
そんな時代の話だ。
その年の10月31日、北米大陸の太平洋岸沖で一艘の漂流船が発見された。
発見したのはアメリカ船籍の貨物船マーガレット・ダラー号で、シアトルを出港してファン・デ・フカ海峡の入口であるフラッタリー岬沖に差しかかったとき、異様な雰囲気を放つ小型漁船を発見した。
近づいて観察し、ロバート・ダラー船長は息を飲み、恐怖を覚え、そして小さく黙祷を捧げた。
異様な漂流船の甲板に転がる、干涸らびた遺体を見たからだ。
もう救助のしようもない――これは死の船だ。発見が遅すぎた。
甲板には60センチをこえる昆布が芽吹いており、船体側面に張り付いたフジツボが船までを覆いつくさんとしている――。これはこの船が救助されないまま、どれほど多くの朝と夜を越えてきたかを物語っていた。遅すぎた、本当に。
接舷し、その小さな漂流船に乗り込んだダラー号のクルーたちは、そこで奇怪極まる光景を目にすることになる。
これは酷いありさまと表現するしかない。
甲板には干からびたミイラが二体。ほかに目を向ければ足なり腕なりを欠損したバラバラのミイラ、多数の白骨。船内はあちこちに海鳥の羽が散乱し、生きていた頃の彼らが捕食した形跡があった。
司厨室に行ってみれば、異臭を放つ脂肪の塊と白色の肉片が残されていた。
そして鍋に代用したと思われる石油缶の中には人の腕があった。死した仲間の肉を貪り食ったのか、あるいは積極的に殺害して食べたのか。その判断はつかなかった。
バラバラにされていた遺体の一人は、頭部が砕けており、ダラー号クルーは吐気を堪えながらも推察する。
これは、極限の飢餓に錯乱し、相手を食べるために殺し合ったに違いないぞ、と。
漂流船はシアトル港まで曳航され、詳しい調査が行われた。
そこでは、クランクシャフトが完全に折損していること、3冊の航海日誌や杉板に描かれた遺書らしき文字が存在していたことが明らかになった。そして船内で人肉食が行われた可能性を検死した医師が指摘すると、マスコミは競って刺激的なキャッチを誌面に打った。
「幽霊船」「死の船」「人喰い船」「殺し合い」「吸血鬼」
女性を乗せて検閲済みのように検閲済みックしたという記事さえあった。えげつない話である。
12名が乗船していたはずであるのに遺体が9名分しか発見できず、これこそが食人が行われた証拠と思われた。残さず、喰ったのだ、と。
流れ着いた場所も印象が悪かったのかも知れない。
良栄丸が発見されたフラッタリー岬は『墓場岬』と異名を取るほど難破船の残骸が集まってくる場所であったからだ。
墓場岬に幽霊船――。
これは狼男に満月、あるいはドラキュラに棺桶というセットにも引けを取らない親和性があった。
シアトルから発せらた報が瞬く間に全米に広がり、各社がミイラ船良栄丸の恐怖を書き立てた。
騒ぎが収まらぬなか、目撃者も名乗り出た。
ウエスト・アイソム号という貨物船の船長だ。
彼は、奇妙な証言する。
このミイラ船発見騒ぎがおこる以前に、ウエスト・アイソム号は日本から1000マイル離れた海上で良栄丸らしき漁船を発見した。
どうやら航行不能になっているらしい、と気付き近づいて救助しようとしたが、呼べど叫べど良栄丸の乗組員は幽霊のように立ち尽くしているばかりでまったく反応しなかったという。
それで、馬鹿馬鹿しくなってその場を離れたのだと。
食人に殺し合い――無反応の船員。全体を通して、ショッキングで奇妙で、異様な事件だった。人々の好奇心――それも闇の部分を刺激する何かがあった。
商魂たくましい興行師が朽ちた船体を見せ物にしようと1万7千ドルも金を積み、新聞各社は残された航海日誌の版権を獲得せんと血眼になった。
世に言う、良栄丸遭難事故である。
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本日 天気晴朗なれど 波高し
良栄丸がどのような経過をたどったか、現在ではほぼ判明している。残された幾つかの謎にはあまり言及されないが、それについては項の後半で触れることとし、まずミイラ船として発見される11ヶ月前まで時間をもどしてみよう。
良栄丸は1926年12月5日、神奈川県の三崎港から出港し、翌6日天候の都合により千葉県銚子港に寄港したのち天候の回復を待って出港、8日午前3時から房総半島の沖100Kmほどの位置でマグロ漁を行った。
三鬼登喜造を船長とし他に乗組員は11名、総員12名所帯のマグロ漁船だった。
木造19トンの50馬力モーター発動機付き機帆船である。
海難防止情報誌『海と安全』に良栄丸建造当時の船大工棟梁による回顧談が載っている。
材料は淡路産の松を使用、長さ約61尺(18.5m)幅約13尺(3.9m)。無水式の新型エンジンを付け、当時のマグロ漁船としては立派な部類に入ったそうだ。
当時、良栄丸が本拠地としていた和歌山県串本では沖合のマグロ漁が盛んで良栄丸のような20tから30tクラスの漁船が40隻ほどあり、毎年10月から翌年7月まで神奈川の三崎港を拠点としてマグロ漁を行っていた。
多くが八丈島、小笠原諸島方面へ漕ぎつけ、平均して一航海20日間ほどの行程で操業を行っている。
この時代の小型漁船には無線設備はなく、ほとんど経験だけに基づいて航行しており、船長という役割も『経験値』だけで決められていた。天体を観測して位置を割り出す技能すら持ち合わせていない船長が多かったという。
良栄丸も12月末には帰港し、新年を本土で祝うはずだった。だが帰らなかった。
そして帰らないまま日々は過ぎ、1年後に米国シアトル特報の訃報だけが本土に帰ってくる。
食人ミイラ船良栄丸として。
では彼らに何があったのか。
『良榮丸日誌控』をもとに、死の航海を大まかに振り返って見よう。
■注記■
新聞各紙が競って手に入れようとした航海日誌全文を別ページに置いておく。興味ある諸兄は参照されたし。
なお内容を尊重するため、オカクロによる注釈以外はなるべく原文ママにしておいたので、少し読みにくいかも知れないがご容赦されたい。
資料:良栄丸日誌控 全文
なお内容を尊重するため、オカクロによる注釈以外はなるべく原文ママにしておいたので、少し読みにくいかも知れないがご容赦されたい。
資料:良栄丸日誌控 全文
良栄丸は大正15年12月7日に出港し、銚子沖でマグロ漁を行ったが思わしい成果がないのでさらに沖へ進んだ。
11日に黒潮に流されていたことに気づく。
翌12日にはクランク部が破損し機関が使えなくなり、帆を上げようとしたが西風の中でどうにもならず、そのまま船を流した。
14日に北東の風が吹いてきたので、その風で夜明けには陸が見えるだろうと喜んでいたが、結局、彼らは最後まで陸を見ることは出来なかった。
前述のように、正確な航行術を身につけていなかった乗組員達は、自分たちがどの辺りにいるのか概ねでしかわからず、困惑する。
西へ向かうべきか、あるいは付近にあるであろう八丈島を目指すか。
結局、彼らはおみくじを引いて、西に向かうことに決めた。エスポワール号ではないが、運否天賦である。
翌18日になると、船は金華山沖にいるものと見当をつけ、やはり八丈島へ向かう方針に変更したが、20日になると、西風が連日吹くからとアメリカへ向かうことにした。
ここまでの漂流中に3隻の船と通りすがり、良栄丸は救難信号を送ったが、それらの船には信号を気付かれずそのまま去られている。
まさに『海の孤島』状態に陥っていた良栄丸。新年を迎えても、大正から昭和に改元されたことを知るよしもなく、大正16年元旦として赤飯を炊いて祝っている。
漂流から一ヶ月ほどで、まだ乗組員達には楽観ムードがあり、不安はあるも恐怖の色は文面に現れていない。
他の船と出会うことを期待しつつも叶わず、1月の中盤2月ごろになると日誌の記載が極端に短くなってゆく。ただ風と潮流に流される日々。
船員たちは次第に弱り、魚を3匹釣っただけで大笑いする。
そして3月5日。「本日朝食にて料食なし」ここで食糧の備蓄が底を突いた。
日誌は書き込まれない日が増え、3月9日には初の死者が出たことが短く記されている。
「細井傳次郎病氣のため死亡す、直江常太郎も3月7日頃より床を離れず、吾らも身動きできぬ、大鳥一羽釣り上げ」
記述からうかがえるように、この頃には餓えから海鳥を捕まえて貪るようになっている。同時に、日誌の記入者である井澤捨次も弱っている。
3日後、次の死者が出た。
「本日正午 直江常太郎病氣のため死亡す」
次の記述は、5日後の17日。
「井澤捨次死亡す」
日誌の筆者がここで亡くなっている。
これ以降から、記入は松本源之助の手にゆだねられた。
日誌は伊澤がそうであったようにほとんど愚痴もなく、恨み辛みなど見せないまま、淡々とした文体で短く、ただ事実を告げてゆく。
3月27日「本日寺田、横田両君死亡す、大鳥一羽釣る」
3月29日「桑田藤吉 午前9時死亡、三谷寅吉夜間死亡す、サメ一本釣上げる」
4月6日「かねて病氣致しおりし辻内 午前0時頃病死す」
4月14日「サメ一本釣る、詰光勇吉君 午前10時死亡病死」
4月19日「病氣なりし上手君午前死亡す」
この19日をもって、船内の生存者は船長と記入者である松本だけになった。
そして彼らは何とか生き残ろうと、病に弱り切った身体に鞭打ち、あがいた。
しかし救いは訪れなかった。
「漁船にて米国に達せんとするは、コロンブスのアメリカ大陸発見以上に困難なりと心得べし」と事件を分析した気象学者 藤原咲平は言った。
だが少なくとも彼らは目指していた北米大陸に辿り着いた。
コロンブスのようにはいかなかったかも知れないが、風に押され、潮に流され、良栄丸は到達した。
そこで受けた『熱烈』な歓迎は決してリンドバーグのように名誉ある物ではなかった。
人喰い船、野蛮人。足りない遺体。救助を無視し、幽霊のように立ち尽くしていた狂った乗組員。
そしてこの事件は現代でも語り継がれている。
だが本当でしょうか?
言うまでもなく、事件をよりショッキングにするための脚色があり、人々の脳裡に残る風説がある。
それらを取り除いて、そこに何があるのか。
次ページでは事件の本当の姿と、剥き出しの姿に尚残る謎に光を当ててみよう。