We are all just prisoners here,Of our own device
女帝、還らず
1934年3月19日――この日から終わりが始まった。
あるいは、リターとドールが島に降り立った日から破綻は始まっていたのかも知れないが、ひとつの大きな契機として、この3月末に起こった出来事は特別な意味を持つ。
『島の女帝』と称されていたバロネス、そしてフィリップソンが失踪したのだ。
この月の19日までにロレンツは繰り返される虐待に憔悴し、頻繁にフリードとウィットマー家を訪れるようになっていた。なんとかして島を脱出しようと船の来訪を待ちわびていたが、手持ちの金がないロレンツは、バロネスに数日分の水と食料を分けてくれるよう懇願したが、もちろん相手にされなかった。
バロネスが口汚くロレンツを罵ったことでロレンツは自制心を失い、せめて取り上げられていた自らの所持品を取り返そうと荷物の保管されていた戸棚を破壊しようとした。これが良くなかった。
すぐさまフィリップソンに叩きのめされる事となる。衰弱しきった優男と、健康なタフガイでは勝負にもならない。もちろんバロネスの乗馬鞭も存分に見舞われた。
ロレンツはボロ雑巾のようになりながらも地面を這って逃げ出し、『楽園農場』から離れた場所で気を失った。
以下はマルグレット・ウィットマーによる出来事の説明となる。
上記虐待の起こったその2日後にフラリとロレンツがフリードに訪れているが、保護はされなかった。報復を恐れたリターが家に入れなかったのだ――とマルグレットが推測している。が、ウィットマー家にしても同じことで最初は保護に難色を示している。
ようやくロレンツがウィットマー家に招き入れられたのは3月19日になってからだ。
「ロレンツが家にいるということで、その夜はよく眠れませんでした。バロネスとその夫は怒り狂っているだろうし、大事な生贄を保護した者に彼らが何をしでかすか分かったものではありませんでした」
マルグレット・ウィットマー (Margret Wittmer)
だがいつもの恫喝じみた態度でなく、「おいで、かわいいローリー」などと甘えた口調でロレンツを呼び出したという。
そして不思議なことにロレンツはその呼びかけに応じ、バロネスとともに外出し、数時間ほどしてから1人で戻ってきた。マルグレットによればロレンツは特に虐待された風もなく、平静な態度だった。ただ、そうかと思えば唐突に机につっぷして泣き出したこともあったという。
このような奇妙な『外出』が数度あったのちの3月26日、ウィットマー家では楽園農場の方からする賑やかな声を聞いた。
誰か訪問者が来たのだろうか? と考えたが、気にしないようにした。
そして、翌27日、バロネスがまたロレンツを訪ねて来た。今日は大事な話がある――という。
だがこの時、ロレンツはハインツや息子ハリーと出かけており、マルグレットしかいなかった。
バロネスはマルグレットに
・友人がヨットでやって来たこと。
・そのヨットで自分とフィリップソンがタヒチへ行くこと。
・タヒチが『計画』の実現に相応しい場所であること。
・今日の正午に出発すること。
・フロレアナ島を留守にする間、ロレンツには留守番を頼むこと。
これらを告げ、去っていったのだという。
これがマルグレットが見た最後のバロネスの姿だった。
まもなくウィットマー家に戻って来たロレンツは、その話を聞いて、バロネスたちが出立を明示した正午を過ぎてから楽園農場へ向かっている。
2日経ってようやくロレンツはウィットマー家に顔を出し、楽園農場が空き家になっていると報告した。家畜も消え、バロネスの持ち物も無くなっていると。
この『吉報』をマルグレットがロレンツとともにフリードへ伝えに行くと、ドールが狂喜乱舞した。
「彼女は、足が悪いことを忘れたかのように小躍りして喜びました。ホットチョコレートを作ってくれ、貯蔵室からいろいろなご馳走を持ってきてくれました。彼女がこんなに心のこもったもてなしをしてくれたのは初めてでしたが、リターさんが黙っていたのが印象に残っていて、いつもの彼とはまるで違うようでした。私たちは哲学のお話をまったくせずに済みました」
マルグレット・ウィットマー (Margret Wittmer)
「なるべく早くドイツへ帰るよう」助言した。
そしてリター、ハインツ、ロレンツの3人で『楽園農場』へ赴き、家探しがごとく残されていたモノを漁り、役に立ちそうな物品をロレンツから安価で買い取っている。
こんな火事場泥棒のようなマネに諸兄は戦慄するかもしれない。
「おいおい大丈夫かよ。バロネス様が戻ってきたらタダじゃ済まないんじゃねぇの、ヤバいっすよ、マジで」と。
普通ならそう考える。マルグレットなどはやはり『女帝の帰還』を懸念し、空き巣のような行為を諫めている。だが男たちはそのようには考えなかったようだ。
リターなどは
「永遠に戻ってこないさ」と断じ、そしてそれは正しかった。
バロネスは戻らなかった。永遠に。
現在に至るまでその生死すら不明である。
これがマルグレット報告による3月19日から3月末までの出来事――『バロネス失踪』の顛末である。
だがドールによる報告はかなり内容が違う。これについては後述する。
イケてたメンズ、還らず
バロネスとフィリップソンが失踪した事により、島には平穏が戻った。
来訪者が持ってきた積荷を巡っての小規模なトラブルはあったものの、表面上は穏やかな日々が続いた。
ウィットマー家の子供はすくすくと育ち、生活も安定、ささやかな幸福があった。だが、疑心暗鬼も育っていた。
『タヒチへ行ったバロネス』――この話を額面通りに受け取っていた者はおらず、大声で主張はせずとも、皆が皆、事件性を疑っていた。「あの日、何かがあった」と。
バロネスから解放されたロレンツ。――ドールなどは彼を指して『死の下手人』と表現している事から、彼がバロネスとその夫を殺害したモノと疑っていたようだ。
たしかにバロネスが殺害されたと仮定すれば、ロレンツがもっとも多くの動機を持っていたことは確かだ。とはいえ島内に『統一見解』が存在したわけではなく、各々がそれぞれに『推理』をしていた。
当のロレンツ自身は少しでも早く島から退去したがっていたが、体調を崩したまま上手く事を運べずにいた。
マルグレットはその頃のロレンツをして『死に瀕した病人』と評している。
「何時間も同じ場所に座り続けて1人ですすり泣き、一言もしゃべらず――それは胸を引き裂くような痛々しい光景でした。しかし、このように悲痛に落ち込んだとき以外は、私たちにいつも親しげにふるまい、ハインツと私が家を留守にするとき留守番をすることもよくありました。ロルフも彼のことを好きでした」
マルグレット・ウィットマー (Margret Wittmer)
トリグベ・ナッカルードという男が小さな漁船『ディナミタ号』で友人たちとやって来たので、その船に乗せてもらう事になったのだ。
数日間郵便入江に停泊したディナミタ号は7月中頃にロレンツを乗せてフロレアナ島を後にし、7月13日前にサンタ・クルス島に到着している。
この時、ロレンツは良くわからない要求をしている。
サンタ・クルス島で船を乗り換えて、南米大陸の西岸都市グアヤキルまで戻る段取りだったのだが、なぜか大陸行きの船が出るまでの間にガラパゴス諸島のチャタム島へ行きたい言う。
漁船の持ち主であるナッカルードがその頼みを拒否すると、ロレンツは金を積んで頼み込み、要求を飲ませている。(50スクレ。これは結構な大金)
ナッカルード船長は嫌々ながらも13歳の少年ホセ・パミスノを船員にして船を出した。
かくして夜明けのサンタ・クルス島を出たディナミタ号。その後、この船がチャタム島に着くことも――母港に戻ることもなかった。もちろん乗っていた3人が戻ることも。
後にロレンツは別の島でミイラ化した状態で見つかったが、その状況からこれもミステリーであると騒がれている。
そして悲劇は続く。
超人、還らず
バロネス一派が消えた年、1934年の暮れのこと。
ドールが不自由な足を引き摺るようにしてウィットマー家にやって来た。
ドールがウィットマー家を訪れるのは非常に珍しく、何事かとマルグレットが話を聞くとドールは
「博士が死にかけている。助けて欲しい」と言う。
「一昨日、死んだ鶏の肉のジャーを開けたんです。……すぐ、肉が悪くなっているのに気がつきましたが、フリードリッヒはよく煮ればまったく大丈夫だからと言ったんです。」
ドール・シュトラウヒ (Dore Strauch)
伝えられる経過は次のようなモノだった。
ドールの話によると、彼女はリターの指示通り、よく肉を煮立ててリターと食べた。
ドールも肉を少量口にしたところ、食後すぐに気分が悪くなった。が、すぐに良くなったので気にもとめなかった。
翌朝になるとリターも体調不良を訴えはじめ、それが鶏肉に起因するモノだと自己診断した。
やがて症状は悪化、リターは酷く苦しみ、舌が腫れて一言もしゃべれないようになった。
最初、マルグレットは細い管を使って胃洗浄すれば、あるいは――と考えていたが、リターの症状を見てその処置が無駄に終わることを察した。
打つ手もないままやがて日が傾き、夜が来ようとしていた。
喋ることができないリターはそれこそ「死ぬ気」で鉛筆を握り、人生最後の執筆を行った。
それは彼が普段から書き慣れていた哲学についての著述などではなく、いささか不穏当で物騒で、いささか感情的な一文だった。
『臨終に際して、私はお前を呪う』
この『遺書』を書き終えてからドールに向けたリターの視線は「憎悪の光がぎらぎらしていました」とマルグレットが書いている。
そしてドールが彼の近くに歩み寄ろうとすると「彼女をぶつか、蹴るような弱々しい仕草をした」
夜になり、リターの生命が燃え尽きようとしていた。
疲れ切ったドールが休憩のために一瞬席を外すと、リターはマルグレットに向けて揃えた両手を上げた。
この仕草が何を意図したものか――その場にいたマルグレットやハインツには理解できなかった。
その後、マルグレットはリターの看病を続けていたが、夜の9時になってドールが戻ってくると――
「彼はまるで亡霊のように起き上がり、彼女に襲いかかろうとしました。彼の瞳には一瞬熱に浮かされたような炎が走り、ドールは悲鳴をあげ、恐怖で後ずさりしました。そして彼は声もなく崩れ落ち、枕の上に仰向けに倒れました。彼は息を引きとったのでした」
マルグレット・ウィットマー (Margret Wittmer)
この時の事がマルグレットの手記に書かれているが、すこしばかり興味深い記述がある。
リッターが祈るような仕草をしたというとドーレは驚いた。
「そう、彼はきっとあなたがたに許して欲しかったのね」
「許して?なんのためかしら」
「さあ、知らない。でもきっとそうだわ」
「彼は私たちになにかしたのかしら」
それからリターとロレンスの間には何か秘密があったようなことも仄めかした。
夜が更けるにつれて、ドーレは興奮して、ここにいては殺されるなどと絶叫してついに一睡もせず朝を迎えた。
ロビンソン・クルーソーの妻 誰によって「殺される」というのか。この時点で島にはウィットマーファミリーとドールしかいないのに。
そして、この発言をマルグレットにしたという事は、消去法でその場にいないハインツとハリー、そして赤ん坊のロルフの誰かに殺される――ということになる。もしかしたら、島には他に誰かが――などと勘ぐってしまうが、どうだろうか。
ともかく、イブを残してアダムは死んだ。
移住してから5年。彼は自らの成果であるフリードの片隅に葬られた。
マルグレットにより墓は花で飾られ、文字通りリターはこの地に骨をうずめた。このささやかな葬儀にドールは立ち会わなかった。
このリターの死に関して、ここまではマルグレットの視点による経過を書いたが、ドールの説明はまたもマルグレットのそれと全く違うモノとなっている。これは他の『矛盾』とともに後述する。
この後、ドールが島を去り、物語は一応の完結を見る。
失望と、失敗に失策、失恋に失態、そして失意の物語だった。島外メディアによる失笑もオマケに付いてくる。
シンプルな――よくある物語だ。そう評することも間違いではない。
バロネスは船で沖に出て、難破でもしたのだろう。ロレンツもそう。リターは食い意地のせいで命を落としただけ――。
そう考えれば、なにもミステリーはない。
だが、『信用できない語り手』がいるとしたら?
誰かに都合良く作られた真実があるとしたら?
なぜ取るに足らない離島の物語が『ガラパゴス・ミステリー』と呼ばれたか。次ページではそれを見てみよう。