雪の降る夜は恐ろしい
コロは明治、トコロは福井。近代化めざましい日本の片隅で、凄惨な事件は起こった。
1906年2月11日、吹雪の夜のことだった。 福井県三国町の回船問屋である橋本利助商店に訪問者があった。
訪問者は青の毛布をかぶり、同店の番頭である加賀村吉(当時30歳)に面会を求めてきた。 怪しいながらも取り次ぐと、青毛布の男は加賀村吉の親族からの使いで村吉を迎えにきたと言う。
「親戚の婆さまが急病で倒れたので、すぐに来て欲しい」
外はほとんど吹雪であったが、これは出向かぬワケにはいかぬ。 村吉は青毛布に導かれ同店を後にした。
それから2時間後。 今度は三国町玉井にあった村吉の自宅にも青毛布がやって来た。そして川向こうの新保村から来たこと、親戚の婆さまが重病の床で「三国のおっかさんに会いたい」と言っている旨を告げた。
話を聞いた村吉の母キク(当時50歳)は、青毛布とともに吹雪のなかに消えていった。
それから1時間ほどすると、再び青毛布がやってきた。
そうして母キクを連れ出した時と同じ口上で村吉の妻ツオ(当時25歳)を連れ出していった。
このとき、妻ツオは隣家である浅井清七の妻ミヨに子守を頼んでいる。 更に村吉の妻が連れ出されてから40分ほどすると、また青毛布の男が訪ねてきた。
青毛布は村吉の子供(当時2歳の幼女)をも連れ出そうとした。が、留守番と子守を任されていた浅井ミヨが不審をいだき、取り合わなかった。 こんな雪の降る夜に、こんな幼い子を連れ出すなんて、いくら何でも承知できない――と。
青毛布はそれでも食い下がったが、結局は浅井ミヨを言いくるめる事ができず、不承不承に帰って行った。
そして、翌朝、連れ出された者たちの死体が続々と発見されることになる。
世に言う『青ゲットの殺人事件』である。
その夜、何があったのか
翌朝、三国町と新保村を繋ぐ新保橋で凄惨な現場が発見される。
全長500メートルにもなる木造橋のちょうど中央の辺りはおびただしい血液で雪が真っ赤に染まっていた。
さらにその脇にある橋の欄干が斧でたたき落としたがごとく、バッサリと無くなっている。
最初にその現場を目撃した新保村の大工はすぐにここで誰かが殺されたと直感したという。
そして事件の第一報を受けた所轄の三国警察が遺体無き殺人事件として捜査を開始した。
警察はこの新保橋にて誰かが殺害され、その遺体は下に流れる九頭龍川に投げ込まれたものと考えた。
やがて加賀家の裏手に流れる竹田川に小舟がとまっており、その船縁に血液が付着していることが明らかになった。
そして村吉の妻ツオの遺体が竹田川の下流の川底で発見されると、小舟で殺されたのはツオと言うことがわかった。おそらく、「舟で対岸の新保村へと渡す」とでも説明され、小舟に乗ったところを殺害され、川に投げ捨てられたのだろう。
翌14日。三国警察が警察部保安課、福井警察署の応援を得て九頭龍川一帯を捜索すると、九頭龍川の河口付近で一体の遺体を発見するに至る。それは加賀村吉の母キクであること、そしてそこから加賀家の者のほとんどが昨夜に“青ゲットの男”に連れ出されていたこと、そして誰も帰っていないことが発覚した。
これは殺人事件と判断して良さそうだ――。
こうなると、最初に連れ出されたという村吉も生きてはいまい――。
だが、川をさらえど海を探せど、村吉の遺体は発見できなかった。
このことから、村吉を犯人視する見方もあったそうだ。 だが、新保橋で見つかった血液は、到底1人のものとは思えず、結局は村吉も新保橋上で殺されたものとされた。一家皆殺しを狙った凶悪事件だと警察は判断した。
そして、詳しく事情を調べてみれば、新保村の親戚に病人など出ておらず、使いを頼んだ事実もないことから、加賀家の面々は青毛布の男に謀られたことがわかった。 目撃者の証言によると
男の年齢は三十歳ぐらいと思われるが、人相については手ぬぐいをほおかむりにしてアゴで結び、その上に青毛布を頭からすっぽりかぶっていたのでハッキリ分からない。
ということだった。 三国署は重大事件としてこの事件を扱い、上山署長以下全員が不眠不休で捜査に当たった。
A:加賀村吉に恨みを持っていると思わしき者。
B:3人を連れ出した男がかぶっていた青毛布に関わりがある者。
を手掛かりに捜査の手を広げたが、いずれも有力な手掛かりを得るには至らなかった。
村吉は酒も飲まず、実直、真面目な人物で、人から恨みを買っているフシは見あたらなかった。
あえて言えば、その真面目さゆえ30歳の若さで番頭に取り立てられていたことを妬まれたのでは――とその線も洗われたが結局何もつかめなかった。
捜査は長期化し、歴代の署長がその解決に尽力したが、ついに1921年(大正10年)にこの事件は時効をむかえ迷宮入りとなった。
伝説の事件
オカルト・クロニクル運営部は、この事件を都市伝説のたぐいだと考えていた。
この事件の話を目にするたび耳にするたび、内容が少しずつ違っていたためだ。
青ゲットではなく赤ゲットであったり。明治39年ではなく昭和10年だったり。被害者の名も職業も地名も統一されていない。
情報に信憑性が感じられず「ふーん、ぼっけぇ、きょうてえのう」ぐらいに考えてました。
ちなみに『青ゲット』は『青毛布』をあらわす東北地方の方言であるらしい。 だが、少し調べてみればこれが実際に起こった事件であることがわかった。
様々な『変化』を生んだ要因は後述するとして、ここでは得られた情報から事件を再考してみよう。
加賀村吉が当夜に亡くなったとして、死者は3名だった。
加賀家で生き残ったのは他家に子守として雇われていた長女(年齢不詳)と浅井ミヨの機転に救われた次女だ。
少なくとも、青ゲットの男は次女も殺害しようとしていた。もし次女も殺されていたなら、他家へとアルバイトに出ていた長女の元にも行ったのだろうか。
一家全員を殺害しようとした動機はまったくもって分からないが、目的は果たせたのだろうか?
隣家の浅井ミヨを押しのけてまで次女を誘拐しようとしなかったのは何故か?
怨恨の線は薄い――などと、どの資料にも書かれているが、怨恨以外の動機で一家全員の殺害を説明できるのだろうか。
1999年に起こった世田谷一家殺害事件にしても、結局のところ動機がよく解っていない。幼子の命まで奪うほどの理由があったのか。あるいは倫理観が致命的に欠如した人物によって起こされた犯罪であるのか。
時代がどれだけ変わろうと、一家惨殺は業が深い。
疑問符ばかりが浮かんで少しも前に進めないので、ここで分析の仕方を変えて、違う角度から光を当ててみよう。 以下に三国町の地図を用意した。
これは事件から18年後にあたる1924年に発行された三国町概観に付録されている地図である。
このままではなんだか不親切なので、記録を頼りに色分けをしてみた。
資料から得られた情報を元に印を付けたが、各ポイントが必ずしも正確なモノでないのは容赦していただきたい。
三国町は港町として栄え、遊郭なども存在していたので『町』としての体裁は明治にはほぼ完成しており、辻や横道なども事件当時と(18年経過しているとはいえ)大きくは変化していないだろう。もっとも川にかかる新保橋はすっかり様変わりしているが。
とにかく、この地図によれば村吉の勤め先があったとされる三国町上西(現在の南本)から殺害されたとされる新保橋の中間地点まで1.1Km。家族のいた三国町玉井(現在の三王)から新保橋も1.5kmほどだ。
翌日に3cmほどの積雪だった事、夜だった事を加味して、1.1Kmの行程を行くに15分ほどだろうと仮定する。実家-新保橋間も20分ほどだろう。
この時間を事件当日の青ゲットの行動に当てはめてみる。
橋本利助商店に現れた時間を起点として
21:00 村吉を連れだし
21:15 新保橋到着
22:45 村吉の実家へ
23:00 村吉の母を連れ出す
23:20 新保橋に到着
23:40 村吉の実家へ
0:00 村吉の妻ツオを連れ出す
0:10 竹田川の小舟に到着
0:30 村吉の実家へ
0:40 村吉の次女を連れ出す(失敗)
0:50 不承不承で帰る
(※注 時間はおおむねです。正確さを保証するモノではありません)
資料に基づいて計算してみたが、試算するまでもない事実が1つある。 それは『村吉の連れ出しから殺害に大きく時間が割かれている』ということ。
青ゲットの男は村吉殺害のさいに少なくとも1時間は空白の時間を持っている。
橋本利助商店より遠い実家にいた母キクの殺害は行き帰りを含めて1時間しか使っていないのに、村吉には2時間。これが何を意味するのかは議論の余地があろうが、少なくとも動機の大きな部分を村吉が占有していたのではないかとの推測が働く。
空白の1時間、青ゲットは何をしていたのだろうか。
なんの根拠もない話だが、オカクロでは村吉と青ゲットの間で何らかの話し合いがあったのではないかと考える。
「なんの話をしてたってんだよ!」と憤慨の諸兄が出る前に言っておけば、すいません、見当もつきません。
ただなんか、そんな気がしません? ってだけ。
独自調査としてうっすらと調べたことだけ報告しておく。
三国という町は輸送で栄えた町だった。西日本で集積された物資が三国を経由して北海道まで海上輸送されていた。
だが事件の起こった14年前にあたる明治25年に鉄道敷設法が公布されたことにより、輸送の要は海上輸送から鉄道輸送へと変化する過渡期を迎える。
海上輸送高も半分以上に落ち込み、そこに増税もかさなって村吉の勤めていた橋本利助商店のような回船問屋は軒並み廃業をしている。(福井県内において福井銀行に次ぐ有力金融であった大和田銀行、森田銀行などは回船問屋が商売替えしたもの)
この過渡期にあって、事業をたち直すため橋本利助商店が『危ない橋』を渡り、その舵取りをしたのが当時の番頭であった加賀村吉で――などというストーリーをオカクロ運営部は描いてみたが、当然なんの証拠も見つからなかった。
★他にも考えたよ一覧
■家族さえ居なければ、あの人は私のもの説 村吉は真面目に見えて、内実は違ったかも知れない。遊郭の女と恋仲になり、その女が村吉を独占したいがあまり、刺客を雇って凶行に及んだ。村吉は船で他の港へと連れ去られた。無論、証拠はない。調べてすらいない。
■日本史上初の保険金殺人、加賀の家は黒い家説。 明治の新聞に目を通していて、意外なことに生命保険の広告が多いことに気がついた。この頃から生命保険があったなら、悪用せんとする輩がいても不思議ではない。 コレについては、少し真剣に調べた。が、徒労に終わった。
■半島からの工作員説
――自主規制――
■4年後の殺人事件とリンクしてるんじゃないか説
青ゲットの殺人事件の起こった4年後、三国町大門にて殺人事件が起こっている。大門といえば青ゲットも新保橋に行くため通った区画だ。
上記の地図を参照すれば、ちょうど橋本利助商店と村吉の実家のあった玉井の間に位置している。
三国町百年史によれば、『精神薄弱による惨殺傷事件(一名死亡、一五名怪我)』とある。精神薄弱がどのような症状を指すのか資料からは分からなかったが、それが知的障害でなくある種の精神病を指すならば、青ゲット事件との関連性もなきにしもあらず――かも知れない。
※2014/4/13加筆。
ヨミダスで調べてみたら、この事件が報じられていた。以下引用。旧字は読みやすく訂正。
福井県坂井郡三国町(現坂井市)大字大門 旅人宿兼魚商、四郎兵衛長男 由太郎(26)なる精神病者は25日朝7時、父と口論の末、これを斬倒し素裸となりて大鉞(オノ)をふるい廻り、人さえ見れば斬付け約30分の間に24人を斬り、いよいよ阿修羅の勢いにて荒れ廻るより、町家いづれも戸を締むるに至りし。
同8時40分、20名の警官包囲してようやく取り押さえたり。
読売新聞 1910年7月27日朝刊
これは……精神薄弱なのか?しかし、精神病者としっかり書かれているので、青ゲット事件との関連も妄想してしまう。もう少しリサーチを続けたいと思う。なにか情報があればお寄せ下さい。
※加筆ココマデ
プロファイリングに挑戦してみれば、なんらかの足がかりを得られるかも知れない。
素人プロファイリングではあるが、考えてみた。
犯人は25歳から40歳の男性。
事件現場から3km以内に住んでおり、地理に明るい。船でやってきたよそ者ではない。
知性は人並み以上あり、日中は仕事に就いている。仕事はできるほうで、職場では頼りになる存在。
家族と同居しており、普段のコミュニケーション能力も低くはない。ゆえに孤立した人間ではない。
痩せ形で腕力はそれほどでない。身体的な障害がある可能性。
自己主張は強くないが、ときおり火がついたかのように激情を表に出すことがある。
おそらく、事件後も同地区にて生活している。彼の妻は異変に気がついている。
根拠を書き出すと冗長で面倒なので割愛。どうですかね、ホッチー。
伝説の変容
この事件において、興味深いのが『本家の提灯』だ。
記述によってちがうが、青ゲットが加賀家本家(新保村)の家紋の入った提灯を持っていたとする話がある。
家紋の入った提灯で雪道を照らしてやってきたのだから騙されるのも無理はない――という。そして、事件発覚後、警察の捜査によって提灯に調べが入ったが、本家の提灯は埃をかぶったままで触った形跡もなく……謎が謎を呼ぶ。
だが、これは事実ではない。提灯は松本清張による短編小説『家紋』の小道具だ。
『家紋』はこの青ゲットの殺人事件をテーマにした短編小説であるが、その中で青ゲットならぬ釣鐘マントの男が手にしているのが本家の提灯だった。
清張がフィクションの名を借りて推理したのか、あるいはイマジネーションの発露かはわからないが、清張による推理はこうだった『釣鐘マントは寺の関係者でしてん。坊さん言うたかて、必ずしも聖人君子やないすから』
壮絶なネタバレとなったが、推理小説紹介サイトではないので気にしない。
この小説から『人さらい』『マント』『殺人鬼』などのエッセンスが抽出できる。
そして中野並助著『犯罪の縮図(通路)』で色の変化が起こる。
著者は検事総長の職にあったということで、警察のコアな部分からの情報と思えてしまう――が。
青毛布→赤毛布。
本家の提灯を持っていた。(ここで初めて触れられる。清張のネタ元か)
加賀村吉の母キクが出てこない。殺されたのは2人としている。
小舟が出てこない。
覆面をしていた。
と奇妙な新事実が多数出てくる。
とはいえ、著者自身がこう前置きした上で事件に触れているので一応引用しておく。
私も実は書類や実際見聞した者について研究したのではない。ほんの風聞を聞いたに過ぎないから、誤りもあろうし、くわしくもない。風聞情報で伝言ゲームが失敗したようだ。
この事件に触れた資料は決して多くないが、そのほとんどが孫引きで、少し面白い。
おそらく大元の出典は『三国警察署沿革誌』で、それを元に『福井県警察史』が書かれ、それを元に『三国町百年史』となる。
『福井県警察史』→『三国町百年史』は文章を数行付け加えただけの完全引用だった。そしてこの時点までは毛布は赤ではないし、本家の提灯ももっていないし、キクも殺害されている。 誰が毛布の色を変えたのか、今となっては調べようもないが、この赤毛布が『都市伝説 怪人赤マント』の元になったという説もある。
他の都市伝説も実はソースがあるのかも知れない。 余談ではあるが、この事件をして別名『まさかり事件』とするネットの書き込みが散見されたが、調べた資料の中にその呼称を用いている物が見あたらなかった。情報をお持ちの方がおられたら、コッソリ教えていただきたい。福井新聞かなぁ。
雪の迷宮
なぜ、未解決に終わったか。それに関して『犯罪の縮図』で中野並助氏が興味深い事を書いている。
以下引用。
福井では昔から大きな事件というと大方迷宮に入っているとも聞いた。
これはもちろん警察やわれわれの責任であることはいうまでもないが、一つはこの辺の信仰! 地面を歩く時にも蟻を踏み殺さないように気をつけるほど、すべての生物を殺すまいとする善心は、犯罪を知っても自分の口からは決して口外すまいとする。これが検挙に影響することは否めない。
――中略――
うっかりしたことは言えないという、地方民のこの心理が、また非常に検挙の邪魔をしているのである。
責任転嫁に聞こえるし、地方在住者に対する偏見に満ちた分析であるように思える。さすがは『犯罪の縮図』を書いた人だ。
このような人物が捜査していたのでは解決も望みようがないが、当時の福井には解決できそうな人物がいた。
伝説の刑事、荒川九郎平だ。
清廉潔白な人柄に、驚異的な検挙率。何度も表彰され、在職中に記念碑が建てられたという奇跡の警官だ。
「深夜に及んで帰宅することを常とし、昇進などはあえて望まず、その好機のいたるごとにこれを辞退し、一路天職と信じる職務に邁進した。一面、情にもろく弱者をいたわり貧民を憐れみ私財を恵んでは不良悪徒を善導しこれを教誨したので、凶暴な悪徒もその徳に感じて寸毫の抵抗もなく、縛についた者もあった」
まさに全世界の警官の鑑と言えるほどの人物だった。
彼なら住民たちの協力を得て青ゲット事件を解決できたのかも知れないが、荒川刑事は事件の起こる直前に時の三国署長と意見が合わず職を辞している。
そして、この青ゲットに関して、九郎平は堅く口を閉ざして何も語ろうとしなかったそうである。
時代は過渡期だった。 輸送も、犯罪も、人も、全てが目まぐるしく変化してゆく時代だった。
良いものは変わらない――と人は言うが『良い』の定義も変わってゆく。
そんな圧倒的な時代変革の波に、荒川も飲まれてしまったのだろうか。
荒川は去り、人々は忘れ、犯人は消えた。
こうして、今、我々の手元にはちぐはぐの資料だけが残っている。
本当にペンは剣より強いのだろうか。
■参考資料
福井県警察史 ◎
三国町百年史
三国町概観
犯罪の通路 (中公文庫)
三国近代文学館 (1971年)
より『らっきょうの花咲く丘』
死の枝 (新潮文庫)
より『家紋』
三国町史料 村方記録 ×
曽野綾子作品選集 (4) 初めての旅
×
北國新聞 明治39年1月2月発行分
読売新聞 明治43年7月27月発行分
マーダー・ウォッチャー 殺人大パニック!! (洋泉社MOOK 別冊映画秘宝)
参考セズ