フローレンス・フォスター・ジェンキンス―世界一有名な無名歌手

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She’s a Killer Queen

救いようもなくわめく彼女の歌声を聴くことは、精神病院の保護室に収容された患者の声を盗み聞きすることに似ている。 Billboard


強風の中で酒に酔った船乗りのように揺れる。 Newsweek


一千万匹の豚のように歌い、ファンに狂喜の悲鳴を上げさせた。 The singing voice


これまでマンハッタンで披露された中でも、おそらく最も完璧かつ絶対的な才能の欠如。 LIFE


何か言えば中傷になってしまうので言わないことにする。 Esquire


以上のように、各社が辛辣なユーモアをもって彼女の評にあたっている。
それでも周りがなんと言おうと、彼女は音楽の殿堂と呼ばれるカーネギー・ホールを満員にし、チケットを完売させた。

どうせ金満マダムが金満マダムらしく、金で人を呼んだんだろう。有り余る富か、ふん、つまらないことだ、資本主義に魂をひかれた豚め
と諸兄は持たざる者特有の卑屈かつ独善的な目線で評するかも知れない。

たしかに、彼女が音楽活動を始めた初期の段階では、チケットをタダで配るばかりか、金銭を渡していたという話もある。

だが、これはリサイタル自体がチャリティーの性質を持ったものであった事を考慮する必要がある。

売れない音楽家や芸術家を支援する――そのためには多くの人の目に触れさせる必要がある――と。もちろんフローレンス自身も『売れない歌手』に含まれていたのだろうが。

チャリティーをうたう24時間テレビでも、多額の出演料を支払ってタレントを呼んでいるのである。――募金してもらうには金がいる。

世の中、金が全てじゃないが、全てに金が必要だ――を地でゆく話である。優しい言葉はあふれているのに、我々を取り巻く世界はいつもなんだか世知辛い。
とはいえ「やらない善より、やる偽善」が正しいので、それはいい。マラソンする意図はまるでわからないが。

ともかく、始まりはどうであれ、結果として彼女が多くの熱狂的なファンを獲得し、活動後期にはチケットが高騰したのは事実だ。
1937年ごろのリサイタルの様子。 この会に参加できるのは友人たちや真の音楽好きだけだったとされている。 New York Post

1937年ごろのリサイタルの様子。
この会に参加できるのは友人たちや真の音楽好きだけだったとされている。
画像出典:New York Post


その後も人気は衰えず、彼女が録音した「魔笛:夜の女王のアリア」をふくむ8曲の音源は、彼女の死後10年を経て有名な『RCAレッド・シール』と呼ばれるクラシック・ミュージシャン羨望のレーベルで発売され、たちまち完売した。

この録音はフローレンス曰く「後世に残すため」という、豪胆無比な目的のために残されたワケであるが、ここで疑問も浮かぶ。
普通に歌っているだけでは気がつかないかも知れないが、彼女だって録音したら自分の歌の酷さが客観的にわかるはず。

自分の歌った『夜の女王のアリア』と、フリーダ・ヘンペルの歌ったものを聞き比べれば優劣は明らかだろう。なのに、彼女は最後まで気がつかなかった。

彼女のレコーディングはニューヨーク セントラル・パーク西25番街のスタジオで行われたが、そこで録音した直後、自らの歌声を再生し
素晴らしいわ、これ以上改善のしようがない!」とニンマリしたそうだ。
この時に録音されたのが前掲した『夜の女王のアリア』である。最後の“一音„を気にしていたアレである。

自主制作盤としては例外的なことに、このレコードは『タイム』誌(1941年6月16日号)でレビューされた。
そこにはこうある。
これはクラブを主宰する裕福な老婦人で、アマチュアのソプラノ歌手であるフローレンス・フォスター・ジェンキンス夫人により、1枚2ドル50セントで友人たちに販売することを目的に録音されたものである。
夜の女王然としたジェンキンス夫人の急上昇と急下降、のたうちながら転がり落ちてゆくトリル、ほろ酔いのカッコウのように繰り返されるスタッカートは、聞けば爆笑必至だが、マンハッタンで彼女が毎年行っているリサイタルもだいたいこんな感じだ。アメリカ音楽界のなかではマイナーな位置にあるこのイベントでは、事情通のマンハッタン住民によるチケット争奪戦が起こる。
ジェンキンス夫人は『夜の女王』の成功に気をよくしており、これからもいろいろな曲をリリースするつもりだ。ファンもそう願っている

Joy fills my heart: Mozelle Bennett Sawyer
フローレンス・フォスター・ジェンキンス

これは1941年の記事で1944年の『カーネギー・ホール伝説の夜会』の数年前から彼女をコキ下ろす酷評があったことがわかる。
リサイタルの最中でも、彼女を笑って口汚く罵ったり、ヤジを飛ばす輩もいた。

普通ならここで自分の能力を疑ったり、自信をなくしそうなものであるが、彼女はそれら自分に向けられる悪意を「意地悪い同業者が聴衆に紛れ込ませたチンピラによる嫌がらせか、嫉妬によるもの」と考えていた。剛胆なことである。

しかしこの逸話から、我々は彼女が自分の歌唱力にどれほどの自信を持っていたかを察することが出来る。
しかしなぜ?

あまり深く踏み込まれることがないが、このパーソナリティはフローレンス・フォスターの『病気』に起因するのではないかという指摘がある。

児童文学『不思議な国のアリス』に出てくる『帽子屋』というキャラクターをご存じだろうか。

これはハートの女王の怒りに触れた男で、三月ウサギ、眠りネズミとともに、『狂ったお茶会』のシーンに登場する。このお茶会は止まった時間の中で永遠に続くものとされ、頭のおかしな3キャラクターがアリスにワケのわからないナゾナゾを出したりする。

この『帽子屋』とフローレンス・フォスターが同じ病気だったのではないか――という。
それは水銀中毒だ。

アリスに登場する『帽子屋』は「mad as a hatter (帽子屋のように気が狂っている)」という英語の慣用句からルイス・キャロルが創造した空想上のキャラクターではあるが、慣用句自体はキャロルによって創作されたものではない。

当時の帽子屋はフェルトの加工ために水銀を使用しており、職業病として慢性的な水銀中毒に陥り、その症状から『キ○ガイ』あつかいされる者が少なくなかった。この慣用句はそこから生まれた。

くだんのフローレンス女史も夫から梅毒をうつされ、その治療に水銀やヒ素などを長年使用し続けていた。このフローレンスの自己評価の高さ、認知能力の低さは慢性的な水銀中毒による精神錯乱だったのではないか――そんな話だ。

もう一つの治療法で使用されたヒ素も神経症状を起こすことで知られている。絵画を描くために使用される一部の顔料にヒ素が含まれていたため、モネの失明やゴッホの神経症状もこのヒ素に起因するのではないかと指摘されている。

フローレンスが実際にはどうだったのかはわからない。
だが彼女が病苦と戦っていたのは事実だ。梅毒のために始めたオカルト治療。それが様々な副作用を引き起こし、一生彼女を苦しめた。

現在では『音痴の歌姫』の代名詞とも呼べるフローレンス・フォスター・ジェンキンスだが、オカルトクロニクルとしては『幼少時は上手かった仮説』をこっそり提唱したい。
本当は上手かったが、各種有害物質の中毒症状と加齢により、上手く歌えなくなっていた――そしてそれを承知の上でそれを認めたくなかったのでは――と。

我々が耳に出来る彼女の歌声は1941年に録音されたもの。この時点で齢74歳

彼女が8歳の頃「天才児リトル・ミス・フォスター」と絶賛され、全米規模の大会に二度参加したのは事実。もしかしたら、病に冒されるまでは本当に天才だったのではないか。
フィラデルフィア音楽アカデミーでの成績も優秀だった――と資料にもある。
もしかしたら、病気が天使の羽根を折ったのではないか。彼女は折れた翼のまま、羽ばたこうとしていたのではないか。そんな気もする。
もちろん、証拠はない。

下手であることを自覚していなかった」というのが彼女を語る上の共通認識になっているが、こう「過去には上手かったんじゃないか」という視点から見たとき、彼女が友人に語ったある言葉が深みをおびて聞こえる。

私が『歌えない』という人もいるかも知れない。だれど、私が『歌わなかった』とは誰にもいえないわ


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世界に捧ぐ

様々な言われようをするフローレンス・フォスター・ジェンキンスであるが、一つだけ確かなことがある。
それは、彼女が周囲の人間から愛された人であるという事だ。

彼女はチャリティーや寄付、慈善事業、貧しい音楽家への支援に熱心に取り組んだ篤志家で、友人たちは彼女のリサイタルがあるたびに嬉々として前列を埋めた。
オペラ史上最も有名なテノール歌手であるエンリコ・カルーソーも彼女に掛け値無しの好意と尊敬心を示した。

彼女自身も友人たちを大切にし、奇妙ではあるが「友情を断ち切ってしまう」という独自の考えから、先端のとがった贈り物を決して受け取らなかった。
離婚後パートナー(結婚はしていない)として長い間を一緒に過ごしたセントクレア・ベイフィールドは言う。

彼女の友人は彼女が大好きだったから、声のことを悪くいえなかった

彼女は控えめで親切で、ちょっぴり風変わりな人物だった。
1941年にタクシーに乗車していて交通事故に巻き込まれた時、意識の混濁まで体験しておきながら、タクシー会社に苦情の一つも言わず、逆に
以前より高いFの音がでるようになりました。ありがとう」と運転手に高級葉巻を一箱送っている。

もちろん、リサイタルに集まった聴衆たちも彼女を愛した。

たいていの場合聴衆は、あからさまな笑い声で彼女の気持ちを傷つけないようにしていた。
それでできあがった決まり事がある。
どうしても笑わずにはいられないような、特にすさまじい不協和音のたぐいが生じたときには、喝采や口笛をいっせいに鳴らして、その大騒音のなかで心おきなく笑えるようにしたのだ。
コズメ・マクムーンによる回想
フローレンス・フォスター・ジェンキンス

才能に惚れても、人格に惚れるな――という言葉があるが、彼女の友人やファンたちはその全く逆を行っていた。

渇いた現代社会にスレてしまった諸兄は言うかも知れない。

どうかなぁ。才能と人格がアレだったとしても、金持ちには人は群がるんじゃねぇの? いや俺、金持ちじゃないからわかんないけど」と。

そう、たしかに諸兄は貧しく、フローレンスは裕福だった。彼女の有り余る富が一部『忠実なゴマスリ』を生んでいたことは否定できない。彼女の自信は『優しすぎる友人』と『金に群がるハイエナ』によって下支えされていたという指摘もある。

聴衆にとって「富裕層を皆でバカにする」という行為がある種のカタルシスとなり、聞くに堪えない歌唱をエンターテイメントに昇華していたのでは――とも思う。我々は富裕層でもないのにバカにされるが、それはいい。最近は犬までが半笑いに見える。

ともかく、現代においても彼女の人気は衰えず、死後いくつかの戯曲、そしてミュージカルの題材に取り上げられ、近年では大女優メリル・ストリープがフローレンスを演じた映画『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』が撮られた。これは今年の年末――2016年12月1日に日本公開される。
『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』 フローレンス・F・ジェンキンスをメリル・ストリープが、彼女のパートナーだったセントクレア・ベイフィールド役をヒュー・グラントが演じる。

『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』
フローレンス・F・ジェンキンスをメリル・ストリープが、彼女のパートナーだったセントクレア・ベイフィールド役をヒュー・グラントが演じる。
ベイフィールドとは離婚後に知り合い、30年以上の付き合いがあったが、二人が結婚することはついになかった。

追記:DVD及びBlu-rayで発売されました。『マダム・フローレンス! 夢見るふたり [DVD]
画像出典:telegraph.co.uk


歌手として最高の舞台に立ち、その一ヶ月後彼女は燃え尽きたかのように亡くなった。

キャリアの最高潮にあっての死に多くの者が嘆き悲しんだ。

彼女は生前、自らの死後、遺された財産を才能ある若者への奨学金に使うよう遺書をしたためていたが、これは『謎の紛失』があったため履行されず、相続の権利を持つ者たちの間で泥沼の争いが起こった。

虎は死して皮を残し、人は死して名を残すと言う。フローレンス・フォスター・ジェンキンスは名だけでなく、多額の遺産、おかしな歌声、そしてちょっぴり奇妙なサクセスストーリーを残した。

金で夢を買った――という見方もできる。だが彼女は理想の歌手であろうと最後まで努力を怠らなかった。批判や嘲笑をはねのけようと、レッスンを受け、聴衆を楽しませる趣向も凝らした。
誰かが人生を賭けて打ち込んだ事を偉業と呼ぶならば、きっと彼女の努力も偉業なのだろう。

彼女からオファーを受け、伴奏だけでなく歌の合間の花回収をも手伝ったピアニスト、コズメ・マクムーンは後にこんなことを言った。

彼女の真似をしようとした者は数多いが、成功していない。マダム・ジェンキンスほど真剣ではなかったからだ

彼女の生き様は、夢を叶える者たちとそうでない者を隔絶するのは、周りを気にしない断固とした『努力と継続』なのではないか? と我々に語りかけてくる。続けられること、それこそが最大の才能だと言う者もいる。
が、努力はめんどくさい、継続はバカらしい、失敗したくない、苦労せずに偉い人に褒められたい、もっと褒められたい、その上諸兄は金もない。まったくもう。

ふと考えれば、我々は『誰かのマヌケな失敗』が好きな生き物なのではないかと思う。
突き抜けたヘマやマヌケ、勘違い、失敗をどこか憎みきれない性質がある。

ポーツマス交響楽団という1970年に結成されたオーケストラは、楽譜を読めない――もっと酷いのでは楽器を触ったことのない者たち――で結成された。
大曲の構成など覚えきれず、始まりと終わりぐらいしか把握していない。そしてその把握も正確ではなかった。

かくして生み出されるべくして生み出された不協和音はなぜか大音楽家レナード・バーンスタインに感銘を与え、発売されたLPレコードもなぜか好評を博した。

ポピュラーミュージック界では1978年に『過去にレコードに収録されたなかで、どうしょうもない曲』を集めたコンピレーション・レコードが発売され、ロンドン地区だけで一週間で2万5千枚を売り上げた。
主要曲目:『輸血』車を最高速で走らせる癖があるためにいつも献血車にお世話になっています――という曲。『ぼくはスペインに行く』従兄弟のノーマンが去年楽しい思いをしたというどうでもいい事柄を中心に、休暇中にやりたいことを歌う。ほか『どうしておれは生きているのか』等収録)

創作者や表現者は批判を恐れて、上手くやろう、良く見せようという事に執心しがちであるが、もっと自由でいいのかも知れない。
生み出すモノに悪意がなく作り手の楽しさ伝われば、受け手もそれを楽しめる程度には成熟している。過去の何かと比べるような高尚な批評はできずとも、背伸びせず言ってくれる「こりゃ酷い、でも最高だ」と。

フローレンス・フォスター・ジェンキンスは固く信じていた。
私が勇気を持って歌う歌は、聴衆に喜びをもたらす」と。
巧拙はともかく、聴衆はたしかに喜び、言った。「こりゃ酷い、でも最高だ」と。

ともかく、キャリアの最高到達点での彼女の死は各方面に衝撃を与えた。
友人たち、ファンたち、そして彼女をコキ下ろしていた批評家やメディアにも。

もう彼女が下手なアリアを調子外れで歌うことも、自作の天使の衣装で着飾ることも、、聴衆に壇上から花を撒いたりすることも、無理して奇怪な踊りを見せることもない。それらは、あらゆる意味で彼女にしかできないパフォーマンスだった。

そして、彼女の亡骸は華やかなニューヨークを離れ、すべての出発点である故郷ペンシルヴァニア州ウィルクスバリに戻り、父親と同じフォスター家の墓所に埋葬された。

死因は心臓発作。76歳の歌姫だった。

批評家は当時の事を聞かれ、こう返した。

拍手喝采には間違いなく、心が込められていた」と

彼女は歌手活動で常に嬉しさいっぱいだった。残念ながら、この種の歌手は実に稀である。
彼女の嬉しさは、聴く人へ魔術のように伝わった。
聴衆はこれにブラボーの喝采で、時には喜びの哄笑で応えた。誰も真似できない彼女の歌にほれぼれと聞き入った。

辛辣な批評家もいた。だがそれらによる嘲笑を和らげ次第に警戒心を解かせる能力が彼女にはあった。それは『巧拙をこえた、人の心の琴線に触れる優しさ』だったと表現される。

セントクレア・ベイフィールドも後にこう述懐している。
人々は彼女の歌を笑ったかも知れないが、喝采は本物だった。
彼女はただ、人を幸福にすることしか考えていなかった。

そして現代になっても彼女の声は名盤揃いのRCAレッド・シールのなかで燦然と輝いている。

もう、二度とカーネギー・ホールであのアリアが聴かれることはない。

■参考資料人間の声の栄光????:BMGインターナショナル 2001版 ライナーノーツ/東端哲也氏人間の声の栄光????:BMGビクター 1992版 ライナーノーツ/和田典彦氏「ハイCsの殺戮」オリジナル・レコーディング(1937-1951)フローレンス・フォスター・ジェンキンス 騒音の歌姫アメリカ畸人伝おかしなおかしな大記録 (文春文庫)NEWS Exclusive teaser: watch Meryl Streep and Hugh Grant in Florence Foster JenkinsLibrary Lagniappe:Monroe Library at Loyola UniversityFlorence Foster Jenkins: An AppreciationFlorence Foster Jenkins:WikipediaHow the world’s worst singer made a career as a musician:New York PostFlorence Foster Jenkins timeline口の中に潜む恐怖―アマルガム水銀中毒からの生還ヴィーナス、マーキュリー、ヒ素:からむこらむ Florence Foster Jenkins:Find A GraveFlorence Foster Jenkins Trailer & Official Movie Siteあなたに金持ちになってほしい-ドナルド・ トランプ (著)
 
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