椋平は虹を見たか――地震予知に捧げた人生

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「アス アサ イヅ 四ジ ジシンアル ムクヒラ」

電報を受け取った科学者は気にも留めなかった。明けて翌日、科学者は戦慄することになる。
『伊豆地方大地震惨劇』死者及び行方不明者272名――。椋平青年の予言した通りの時間、予言した通りの場所だった。
調査に当たったある科学者は頭を抱える。
「彼自身を全て信じることは出来ない。だが、何かが、必ず何かがあるんだ」と。

So-called Mukuhira’s Arc

1930年(昭和5年)11月26日朝8時。

京都帝國大学の理学部部長、石野友吉博士は前日に用務員から受け取っていた電報をまじまじと観察した。
内容にはこうある。

アス アサ イヅ 四ジ ジシンアル ムクヒラ

発信局、天橋立局。発信日時は前日の11月25日。
発信時刻は午後0時25分、着信時刻、同日午後0時50分とある。

まぎれもなく、この電報はまぎれもなく前日に打たれ、石野の元へと届いていた。

北伊豆地震直後の被害写真。静岡県三島市でマグニチュードは7.3、震度6の烈震だった。北は東北福島新潟、西は九州大分まで揺れを感じたという。画像出典:中央気象台編 北伊豆地震報告

北伊豆地震直後の被害写真。静岡県三島市でマグニチュードは7.3、震度6の烈震だった。北は東北福島新潟、西は九州大分まで揺れを感じたという。
画像出典:中央気象台編 北伊豆地震報告


『地震アル』などと少しばかり恐ろしい内容ではあったが、受け取った時には特に気にすることもなかった。こんなモノは信用するに足りぬ。地震予知など出来るはずがないのだから――理学博士として、この『予知』に科学的根拠が無いことは断言できる。
日本の最高学府はおろか、世界的にもその技術は確立されておらず、夢のまた夢だったからだ。

だが、この電報はたしかにその朝に起こった地震を前日に予知していた。

翌26日午前4時4時ゼロ3分、北伊豆地震――死者及び行方不明者272名、負傷者572名、全壊2165戸、半壊5516戸。場所と時間が完全に符合している。

差し出し人はムクヒラ、椋平廣吉

そういえば、と石野博士はこの期に及んでようやくその名を思い出した。

これは前年の夏、避暑目的で訪れていた京都の天橋立で出会った青年の名だ。青年は27か28歳ほどの小男で、自身をして『地震研究家』を名乗った。
本人の主張によれば、10年を越える観察の結果、天橋立のある宮津湾に架かる虹から地震が予知できることがわかったという。

旅先での気安さから、石野友吉博士はその夏、椋平青年にこう言った。「もし地震を予知したら、東大なんかじゃなく、地元の京大に電報を打ちたまえよ。は、は、は」と。

そして、四つの季節を経て、椋平は電報を打ってきた。たしかに――地震を予知して。

かくして、後世に多くの謎を残すことになる『椋平虹』論争が始まろうとしていた。

mukuhira005A 当時の科学技術の最高峰をもってしても不可能なこと。
大規模な予算が投入され、多くの優秀な学者が動員されても不可能だったこと。

それを、科学者でもない――高等小学校しか出ていない者が成し遂げたというのか。
それも――児童の使う分度器を主な観測道具として。

その後も椋平は地震を予知し続け、予報を行った。新聞が騒ぎ立て、椋平による『地震予知』の功績は世界にまで届いた。

その噂は世界史に名を残した2人の人物の耳にも届き、本人から手紙が送られてきている。

親愛なる日本の科学者ムクヒラ君。
貴君が今回、日本に起こった大地震を前日に予知し、京都大学理学部部長石野教授に報ぜし偉大なるニュースを知り、遙かに敬意を表します。
地震が起こる前に知ることは世界的な学問であり、人類のためにきわめて重大な問題であります。貴君によって、この学説が世界に発表されたことは誠に喜ばしいことです。
一層の研究を続けられんことを御祈りし、重ねて健康を望んでいます。
1930年12月10日 アルバート・アインシュタイン

後援会機関誌『椋平虹』より

説明するまでもない、『天才』の代名詞である。
手紙を送ってきたもう1人の偉人も負けず劣らずの天才だった。その天才が椋平を天才と呼ぶ。

日本の生んだ偉大なる天才椋平君。
現代、世界地震研究家のあいだに問題となっている地震予知が、貴君によって発見せられたことは、誠に喜ばしい事です。
貴君がその虹を学会に報告し、その理論を発表することは一代の大事業です。
今後一層奮励して、斯界のためますます研究を進められ、世界における有名な物理学者たられんことを祈っています。
1931年1月21日 トーマス・エジソン

後援会機関誌『椋平虹』より

このように椋平は瞬く間に時の人となった。日本に偉人は多くとも、この両名から手紙を貰った者はそう多くあるまい。

その後も椋平は朝、昼、晩、毎日3回宮津港へ出向き、虹の観測を行った。
そして虹が見えると、それらをつぶさに観察し、独自の計算方法をもって『震度、地方、時刻』を計算すると、その内容を科学者や知人に手紙を送りつけるという『予報』を行った。この『生涯の仕事』は彼が亡くなる直前まで続いた。

その的中率、実に『86%』とされ、いつしか椋平の観測していた虹は『椋平虹』と呼ばれるようになった。
だが、この椋平虹による地震予知のメソッドは彼の死と共に失われ、相変わらず人類は地震に怯えて暮らしている。相変わらず、大地は揺れて、西野カナも震え続けている

椋平虹とは何だったのか。彼の驚異的な的中率を誇る地震予知は何だったのか。

椋平にともだって何度も宮津湾に出向いていた椋平後援団体のある人は言った。
「結局、誰も椋平虹を見ることが出来なかった」

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Boys, be Unbreakable.

伊豆地震を予知した頃、27歳の椋平青年。写真に『大阪毎日新聞掲載』と書かれているのが見て取れる。毎日は椋平を最初に大きく取り上げ、熱心に取材し続けた新聞だった。そして、ある時を境に手のひらを返した。画像出典:アスアサ四ジジシンアル

伊豆地震を予知した頃、27歳の椋平青年。
写真に『大阪毎日新聞掲載』と書かれているのが見て取れる。毎日は椋平を最初に大きく取り上げ、熱心に取材し続けた新聞だった。
画像出典:アスアサ四ジジシンアル―ドキュメント・“椋平虹”の挑戦 (1975年) (Mint books〈1〉)


日の出。正午、日没。雨天を除いて毎日宮津港へ行き、空に虹を探す。
それが17歳で観測を初めてから、齢80を越えるまで続いた椋平の日課だった。

そのキッカケは小学4年の頃、古本屋で『濃尾大地震』の画報を目にする出来事まで遡る。

濃尾大震災は1891年(明治24年)中部地方で発生した地震だ。この地震は、日本史上最大の内陸地殻内とされ、震度7、マグニチュード8.0、死者は7273名、負傷者17175名、倒壊家屋は14万2177戸という未曾有の災害だった。
1923年の関東大震災のマグニチュードが7.9

この惨事を伝える画報を目にした椋平少年は、地震について深く考えるようになった。その頃、小学校の授業で将来の夢を発表するとき「なんとか事前に地震の到来を予期できるようになりたい」と発言している。

そして17歳になった年、1919年5月19日の夕暮れ、椋平少年がふと空を見上げると、湾の対岸に当たる栗田半島、その山の稜線近くに『虹の切れ端』のようなモノが見えた。
少年が名古屋で地震があったことを新聞で知るのはその2日後のことだった。その後も、『虹の切れ端』を見るたびに、どこかで地震が起こった。

その虹について宮津の老漁師に質問してみると、老漁師はそれが『日の粉』なのだと言った。日の粉が出た後は、必ず3日のウチに海が荒れるか天変地異が起こるのだ――と。

この日から、椋平少年の虹の観察が始まった。1日3度、宮津港の決まった場所から、栗田半島の高峰を見つめ、様々なデータをノートに書き込んでゆく。虹が確認できたときは、児童用のセルロイド分度器で角度を測り、形を写し取る。椋平はこの作業をこの後、60年続ける事になる。

椋平はやがてこの虹を『短冊形光象』と呼ぶようになるが、この光象を観察し始めてから翌1920年5月までの1年で7回の的中をみたと研究ノートに書き残している。
「大正九年五月までに、同現象を七回ほど目撃し、地震のあったことも報道されたので、地震と関係あるものと疑問を抱き、これを研究することに決心した。家業に従事しながら引きつづき観測した」

宮津の一色儀十郎という老人の一言も椋平の背中を押した。一色老人は『日の粉』について、こんな事を言った。

「あの虹が出た後は、必ず何かが起こる。明治24年10月27日、その日も虹が出た。そしてその次の日に大地震が来た」
そう、濃尾大震災だ。この言葉は椋平少年に、運命的なものを感じさせたに違いない。

だが、この椋平虹はこの時点で科学的根拠のない民間伝承の類――いわゆるオカルトの一形態に過ぎず、地元の弁論会で『虹による地震予知』を発表した椋平に待ち受けていたのは、賞賛や激励などでなく、罵倒の洗礼だった。
「インチキ」――「詐欺師」――「ペテン師」まるで類語辞典を引いたかのような罵詈雑言が椋平に浴びせかけられた。

そして迎えた1923年。椋平19歳の夏。いつもの観測に出向いた椋平は、そこで虹を見た。
激震――関東地方。明日。

そして、翌日。歴史的災害、関東大震災が起こった。
震度7、マグニチュード7.9、死者行方不明者10万5千人超、家屋全壊10万9千、全焼21万2000。未曾有の大災害だった。

椋平と言えば前述の『北伊豆地震の電報』ばかりが取りあげられるが、じつはこの時にも前日に電報を打っていたという。

アス ヒル ダイジシンアル ムクヒラ
宛先は東京帝国大学地震学教授、今村明恒博士。椋平は『関東に大地震が来る』という立場を取る博士の著書に目を通していたため、取り合ってもらえるだろうと電報を打った。

だが、これは結局博士の手元には届かず予報にはならなかった。これに関しては後述する。

地震学の権威である今村明恒博士に無視された形になったが椋平はそれでも観測を続けた。椋平による『地震研究経歴』によれば、この後も1925年5月23日に起こった但丹烈震。そして1927年3月7日には地元にあたる北丹後地震などの予知に成功している。

北丹後地震では事前に地震が起こることを訴えたにもかかわらず、椋平を毛嫌いしていた小学校の校長に「だまれ、キチ○イが!」と怒鳴られた。
結局地震が起こり、宮津も大きな被害を受けたとき、椋平は救急箱を小脇に走り回る校長に対し
「だから言ったじゃん! 地震起こるって言ったじゃん!」 と詰め寄ったが、やはり「だまれ、キチ○イが!」と怒鳴られたという。なんとも語彙の少ない校長である。

ここまでの経緯で、椋平は失意と憔悴の極みにあった。
関東大震災しかり、北丹後地震しかり、自分は事前に予知し、人々にソレを伝えた。なのに、そんな忠告を人々は無視し、語彙少なく罵倒までしてくる。
「やはり大学を出ていないと、だれも信じてくれないのだ。自分には学歴が必要で、人々には忠告に耳を傾ける真摯さと類語辞典が必要なのだ」と椋平は意気消沈していた。

そして1930年。
北伊豆地震が起こると、これまでの不遇が嘘であったかのように椋平は一気に時代の寵児へと担ぎ上げられた。
北伊豆地震を予知した電報。

北伊豆地震を予知した電報。


なにしろアインシュタインやエジソンまでが評価した『地震研究家』なのだ。ありがたいったらない。

名が売れて以後も椋平は次々に地震を予知し続けた。
相変わらず宮津湾上空に虹を見ては、知人へ予知の手紙を出した。1932年には海外――中国甘粛省で起こったM7.6死者7万人クラスの地震も予知したという。

ここまで、サラリと『予知』などと書いているが、もちろんこれは現代の科学的常識に照らし合わせても説明がつくモノではない。

高度に発展した現代の地震学をもってしても、椋平のような予知は不可能である。
科学者たちの前向きな研究が積み重ねられた結果、『地震を予知することは非常に困難である』ということがわかった――それが成果である。

地震が起こるであろう断層は列挙できる。だが、それが『いつ』で『どれほどの規模か』という事は明言できない。明日かも知れないし、100年後かも知れない。

「なんだよ! じゃあなんで椋平は地震を予知できたんだよ! 科学界が草の根の研究を見下したせいで、途轍もない科学的発見を見過ごしたんじゃないのか!」 と諸兄はアカデミズムに不審の目を向けるかも知れない。

この椋平虹のような『地震の予兆』と一般に呼ばれるモノは『宏観異常現象』と呼ばれている。発光現象、火の玉、地震雲、井戸の水位変動や一部の動物の異常行動などが有名だ。
地震の予兆とされるこれらの現象については項の後半で触れる。

ともかく、これらの宏観異常現象は一般に非専門家による観測が主となっており、地震との因果関係もなんら証明されていない。

こと椋平虹について、肯定的な立場の者による「科学界から黙殺された」うんぬんという言説を目にすることが出来る。

たしかに『椋平虹』の予知的中率は「ははは、また言っておるよ。愚かであるなぁ、人の子は」と片付けてしまえる範囲を逸脱している。

では当時の科学者たち――アカデミズムを背負う人々が椋平虹をどのように扱ったかを見てみよう。



地震と予知と科学者と

まず、困ったのは椋平から電報を受け取った前述の京都帝國大学理学部部長、石野友吉博士である。
なにやら予知はあたったらしいぞ。だがどういうメカニズムかまるでわからん――。

理学部の部長とはいえ、石野博士はX線の研究を主に行っており、物理学や地球物理学、地震学の権威というわけではない。
しかたなく石野は同じ京大で地震学の研究を行っていた志田順教授に丸投げしてしまう。

志田はつめかけた報道陣に対しこんなコメントを出した。
「思い当たるフシはあるが、理論的には説明が不能」
かくして当時の科学者による調査が入ることになった。志田は授業を休み、極秘で椋平のいる宮津へと向かうことになる。
だが、これは『聞き取り調査』程度のモノに終わった。

椋平と会談した志田は、初め、『虹から地震を予知するメカニズム』に関して熱心に質問していたが、やがて椋平からの返答に言葉を減らし、椋平が『児童用の分度器』を取り出して以降は黙り込んでしまった。
その会談終了後、志田はマスコミの質問にも一切言葉を返さず、その後も椋平虹に関してただ沈黙を突き通した。

この『志田の沈黙』について、とうとう本人の口から説明される事がなかったため、現在でも謎である。

そして、科学者にそっぽを向かれたせいか、いつからか『椋平は心霊術師』という風聞が世間に広がってゆく事になる。言うまでもなく、この場合の心霊術師は『ペテン師』と同義だ。この風聞が新聞に掲載されたことで、世間一般の評価が「ああ、やっぱりな。俺は気付いてたけどね」となったであろうことは想像に難くない。

しかし、捨てる神あれば拾う神あり。
ここである人物から椋平は手紙を受け取る。
差出人は東京帝國大学教授で、中央気象台(註:現在の気象庁)予報主任も兼ねていた藤原咲平教授である。

藤原咲平教授理学博士気象学者。写真は昭和16年、中央気象台長に就任当時のもの。引用『渦・雲・気象光学など、気象の幅広い分野において独創的な研究を行い、後進の育成にも力を尽くした。著述などによる啓蒙的な活動にも精力的で、「お天気博士」の愛称で親しまれた。現在の気象用語の基礎を作った』画像出典:驚きももの木20世紀

藤原咲平教授
理学博士気象学者。写真は昭和16年、中央気象台長に就任当時のもの。
引用『渦・雲・気象光学など、気象の幅広い分野において独創的な研究を行い、後進の育成にも力を尽くした。著述などによる啓蒙的な活動にも精力的で、「お天気博士」の愛称で親しまれた』
画像出典:驚きももの木20世紀


藤原は椋平虹に関して真摯な研究を行うことを約束し、協力を依頼してきたのだ。先の志田”沈黙”順教授の対応に失望していた椋平であったが、藤原の真摯な姿勢に心を開き、協力を約束する。
この後、藤原が亡くなるまでこの科学者との蜜月は続くこととなり、椋平がたんに『先生』と呼ぶときはこの藤原咲平教授を指すほどの関係になる。例えとしては不適切かも知れないが、有名な『千里眼実験』の福来教授と、超能力者で知られた御船千鶴子の関係に近かったのかも知れない。

藤原は『On the So-called Mukuhira’s Arc as the Foreshadow of an Earthquake(所謂椋平虹について)』と題した英語の論文を作成し、『椋平虹』を世界に紹介した最大の理解者で、生活費も援助した。

心霊だのペテン扱いだのを受けていた椋平虹に対し、科学界の重鎮たる藤原が真摯に向き合ったのは藤原自身の『科学』に対するスタンスが大きく影響している。
本人は生前、よくこう言っていた。「根気よく眺めていると言うことは、自然法則発見に対する有力な態度である」と。
少なくとも、この時点で10年以上の観察を続けられていた椋平虹は、この思想に合致するものだった。

以後20年間にわたり、資金的な援助も含めて交際は続き、椋平は虹の観測データや予知を藤原に送ることになる。
1933年(昭和8年)には椋平は結婚して藤原教授のすすめで和歌山県田辺市に居を移した。これには『田辺でも虹が観測できる。東大の観測所もあり検証がし易い』という事情もあった。
この頃から椋平は支援者たちによる『援助金』により生活しており、地震予知漬けの生活をしている。毎日、浜に出て空に分度器をかざす生活だ。定職に就かない地震予知オタクでも女をつくり結婚できるというのに、我々ときたら……。
ともかく、最低でも月20円の援助が得られ、椋平一家の生活自体は成り立っていた。

では、藤原教授は椋平虹の科学的根拠に迫ることが出来たか?
これはNOだった。

藤原の元には『的中の証拠』とされる手紙などが増え続けていたが、その科学的裏付けはいつまで経っても得られなかった。

当時、藤原教授の資料整理を手伝っていた甥の新田次郎(後に作家。本名 藤原寛人)は、こんな捕らえドコロのない椋平虹に関して懐疑的で、後に椋平虹に関して以下のような述懐を残している。
私は椋平虹に関しては、かなり強い疑惑感を持っていた。
私はある時、椋平虹について叔父(藤原教授)に一方的な議論をふっかけた事があった。
叔父宛に椋平氏から送られてくる地震予知の葉書を整理しているうちに、猛烈に腹が立ってきたのである。
その時も叔父は静かな目で私の言い分を聞いていて、最後に一言云った。
「しかしね、何かあるだろう。何かあるような気がしないかね?」

何か、ある。
そう感じるのも、その『的中率の高さ』にあった。科学的にメカニズムを解明することができないまま、ただデータのみが積み重なってゆく。
相変わらず『心霊術』であるとの評価は覆されておらず、懐疑的な者も多かった。

そうして、昭和22年。
藤原の教え子であり、都内の高校で教鞭をとっていた宮本貞夫が
「みんなだらしねぇなぁ。よし、ここは一つ、小職が根本的に調査してやろう」 と立ち上がった。否定するにしても、肯定するにしても、キッチリと科学的裏付けをつけてやろう、と使命感に燃えていた。

そうして宮津へ出立する前に藤原教授へ挨拶しにゆくと、藤原はこんな事を言った。

「くれぐれも、椋平君を論理的に追いつめないでくれ給え」
この言葉の意味を、その時の宮本は汲むことが出来なかった。
そして宮津で椋平に好意的に迎えられ、観測方法や計算方法を習い、やがてその意味を解するようになってゆく。
これは――とうてい科学的とは言えまい。

宮本は宮津に赴いたときから数えて7年目にあたる1954年に一つの論文を書き上げた。
椋平虹が地震と直接的関係なき証明
これはタイトルの通り、椋平虹を否定する内容だった。

ひとつ、虹の角度で震源地の方向がわかるというが、手に持ち、それを写し取っているようでは少しのズレで数百㎞の誤差が生じるのではないか。 ふたつ、椋平による観測データでは『的中率86%』とするが、厳密に精査してゆけばその的中率は良くて25%ほどである。 みっつ、椋平虹は椋平にしか見えない。後援会の人間も、調査に付き合った宮本も、とうとう椋平虹を見ることは出来なかった。
この否定的な内容の論文が発表されたことで、世間の関心は完全に椋平虹から離れ、椋平と宮本の仲も急速に冷え込んでゆく事になる。
宮本はこの論文を発表した際、知人にこんな事を呟いた。
「1人の男が人生をかけて、こつこつと40年近くやってきた研究を否定するには7年かかりました」
科学は決して椋平を無視してはいなかった。ただ、綿密に調べれば調べるほど、その『アラ』が見つかり、非科学的となってゆくのだ。

「なんだよ! 科学的裏付けが無くても、結果当たればいいんだよ、当たれば! そのうちメカニズムが解明できるかもだろ!」
と諸兄は憤るかも知れない。
そう、当たればいい。藤原咲平東大教授も同じような事を言っている。当たってるのだから、なにかあるだろう、と。
精査の結果、的中率25%が妥当だとしても、時間と場所を指定した上での予知ならば、それはそれで驚異的な的中率と言える。

だが、ここにトリックが介入する余地(註:予知だけに)はなかったか?

次ページでは椋平が行ったとされる『インチキ』を見てみよう。

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