少女がパチリと指を鳴らすと、鳴らした数だけラップ音が返ってきた。
一度叩いたらイエス。二度叩いたらノー。こうして幼い姉妹と霊の間に対話が始まった。
霊の名前はミスター・スプリットフット。『足割れさん』と姉妹は呼んだ。世に言うハイズビル事件である。 Hydesville Kate Margaret
音で応える騒霊
1848年、ニューヨーク州ハイズビル。メソジストの牧師であるジョン・フォックス一家がニューヨーク州ハイズビルの木造住宅に移り住んで三ヶ月ほどが経過した頃のこと。娘のマギー(8歳)とケイト(6歳)は妙な音に気がついていた。
床、あるいは壁を叩くような音が時折聞こえてくる。もとより幽霊がでると噂されていた古い住宅であったというから気味悪いったらない。
3月31日金曜日の夜、とうとう下の妹であるケイトが唐突に勇気を振り絞った。
「名無しのおじさん、私と同じにやってごらん!」
そう言ってケイトが指を鳴らすと、ラップ音もそれに倣った。
姉のマギーもそれに加わり、騒霊とのやりとりが始まる。
娘が妙なことをやっているぞ、と両親も駆けつけ、後のポルターガイスト現象の定番となる『打音コード』が行われた。
「あなたは、人間か?」
と問うと騒霊は沈黙した。
「あなたは幽霊なのか。もしそうなら2回叩きなさい」
騒霊は2回打音を返した。
なんとも奇妙なこと。
夫人は質問を繰り返した。
「私の子供たちの年齢を当ててみて」
すぐさま子供たちの年齢の数だけ打音が響いた。
長女のリア、次女のマギー、三女のケイト。1人1人の『数』の間には充分な間がとられ、驚いたことに死んだ末娘のぶんの打音もキッチリ3回鳴ったと夫人は証言している。
質問を繰り返すと、騒霊は31歳の行商人であり、この場所で数年前にこの家の地下室で殺されたのだと言う。彼には妻と5人の子供がおり、うち息子が2人娘が3人、子供たちは健在であるが、妻は亡くなったのだと。
そうして、騒霊の証言した通り、数年後にフォックス家の地下から確かに白骨死体が出てきた――とされる。
これがいまだに議論の多いハイズビル事件の始まりだった。
センセーション・フォックス姉妹
霊媒姉妹であるマーガレットとキャサリン、そのプロモーター的存在である長女リア。その形は初期の段階から形作られていた。やがてポルターガイスト現象が『フォックス家』だけでなく、近所の家でも披露されることになる。
騒霊は姉妹について回り、彼女たちのいる場所ならどこでもラップ音を聞かせた。
やがて最初の夜から一年も経過しない頃、彼女たちはロチェスターへ招かれる。
旅の途中も騒霊たちはついて回り、そこいら中でまさに『騒霊』だったという。
長女リアはこの時、既に他家に嫁いでリア・フィッシュと名を変えており厳密にはフォックス姉妹ではない。だが『霊媒体質の家系』と事件前から噂されていただけに、リアも知らぬ内に霊媒体質に目覚め、やはり騒霊現象を起こせるようになっていた。
しかし、彼女の夫カルバンはそのような現象が忌々しいことと考えており、徹底的に忌み嫌った。
カルバンに嫌われたからかどうかは定かでないが、騒霊たちもそんなカルバンを嫌ったそうだ。
暗闇でスリッパを投げつけてきたり、カルバンが座ろうとした椅子がヒョイとのけられたりした。、幽霊とはいえ、人に嫌われると不幸が多いらしい。いささか子供じみた嫌がらせではあるが。
そうして、ハイズビルの騒霊が各地で噂となり、新聞にも取り沙汰されるようになると、それこそ各方面からの見物人がどっと押し寄せてきた。
プロモーターである長女のリアはお金の匂いに敏感で、この見物人からしっかりと『入場料』をとる商売を始めている。これは大いに盛況だったらしく、一晩に150ドルもの儲けがあったそうだ。
姉妹は家にとりついた霊だけを呼べるワケじゃない、全く無関係の死者を呼び出すこともできるらしい――。この話が広まるとさらに見物人は増えていった。
■摩天楼 降霊会の夜
1850年の夏。姉妹にとうとうニューヨークの舞台が用意された。霊と交信する姉妹。この怪しげな魅力にニューヨーカーたちは大興奮だった。
ある新聞記者はフォックス姉妹の降霊会について以下のように触れている。
事前の作為を疑わせる事実はいっさい認められない。……われらはあらゆる超自然の存在を根底から疑うものである。しかし、人間による手立てが露見することなく、かくも見事に駆使される舞台を眼前にしては、その説明に窮するばかりであるほかにも興奮は伝わってゆく。
当時、アメリカでもっとも影響力のあった新聞『ニューヨーク・トリビューン』紙の主催であるホレス・グリーリーにして「本物」と認めさせ、以降ホレスは姉妹の強力かつ圧倒的影響力を持つ支援者となった。
名プロモーターであるレアは、降霊会の前後に賛美歌の時間を設け、宗教的味付けと権威付けを行い、ほとんどミサのように仕立て上げた。
これにより神秘性は増し、ますます信奉者を増やしていく結果となる。
同時期には北米だけでなくヨーロッパ各地に雨後の竹の子のごとく『同業者』が現れるという人間社会らしい流れもあった。
『自動書記』『霊媒による霊の声』『物体の幻姿顕現』『空中浮揚』などなど。ニューヨークだけでも100人近い霊媒がいたというから驚きだ。
だがフォックス姉妹の存在感は抜きん出ておりパイオニアとしての威厳は保たれていた。まさに霊媒・超能力界のスーパースター。別格である。
ケイトが英国に招かれ、ケイト自身による『科学的調査』への協力が行われたころが人気絶頂期だった。ケイトはウイリアム・クルックスという研究者のもとで様々な実験に従事することとなる。
このウイリアム・クルックスという研究者は、のちにダニエル・ダングラス・ホームやフローレンス・クックという大物霊媒の調査も行っている。どちらかというと信奉者寄りの人物である。
ケイトの調査をした際、怪音に対してクルックスはこう述べた。
その音は三拍で、時にはあいだに幾部屋もおいた先でも聞こえた。ケイトをワイヤー製のケージに閉じ込めても、天井から下がったブランコにのせても、あるいは彼女が失神状態でソファに倒れ込んでも、その音は続いた檻に入れたり、ブランコにのせたり、やりたい放題である。失神というのもなんだか怪しく……いかがわしい。のちに美人霊媒を愛人にした実績が彼をそう見せてしまう。
こんな怪しいエロ博士の調査ではなく、新聞社(メディアもアレだが、博士よりはまだマシ)による調査も行われた。
それはボストン・クーリエ紙による調査で、その概要はこうだ。
『霊たちに対し、質問をして、正しい答えを得られるか?』
質問内容については情報がなくてここに書くことはできないが、つまりはマーガレットの知り得ない、かつ死者だけが正解を知っている質問に答えてもらおうスペシャル。である。
この実験には賞金がかけられ注目を集めたが、結局マギーの霊たちは正解することができず、アルジ霊媒も500ドルの賞金を得ることがかなわなかった。だがフォックス姉妹の権威が失墜することはなかった。
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イカサマの暴露と背景
1888年、夏の終わり。職業霊媒として活動していた三姉妹、その次女マーガレットがニューヨーク・ヘラルド紙のインタビューに対し問題発言をした。
「あれは霊の反応などではなく、足の指の関節を鳴らした音なのです。子供時代のイタズラから端を発した……」
つまりスピリチュアリズム霊媒界のスーパースターが、自身の口から「インチキやってました」と告白したのである。
これは大波紋を引き起こした。
常日頃から疑っていた懐疑論者たちは「やっぱりね」と勝利を確信したが、それでも『暴露への反論』があがる。ファースト・スピリチュアル・ソサエティのヘンリー・ニュートンは
「ラップ音が足の関節で出せる、などという発想自体が馬鹿げている。彼女の降霊会に関する発言だとしても、これは嘘である。なぜなら、私自身も社会的信用のある人たちとともに彼女たちのすることを実際に見ていたからである。あれがインチキだなんて断じてあり得ない」
これに対してさらに反論したのは、あまたの懐疑論者ではなく、妹のケイトだった。
彼女は言った。
「スピリチュアル主義は、1から10までペテンです」
そしてその2週間後、1888年10月21日、ニューヨークの音楽アカデミーにケイトとマギーの姿があった。
彼女たちはスピリチュアル主義者たちによる盛大な罵声によって迎えられながら、ペテンを実演した。
心霊現象とされていた『演目』のトリックが一つ、また一つと明かされていった。
翌日の新聞は大賑わいで、追ってマーガレットの告白が掲載される。
降霊術の真相を暴露します。これは私の義務であると考えます。
この暴露によって他の多くの職業霊媒たちは大きな打撃を被るに違いありません。しかし、降霊術の開祖は私ですから、それを暴露するのは私の自由であると思います。
この恐ろしいペテンが始まったとき、幼い私たちは大変いたずらっ児でしたから、母をびっくりさせてやろうといろいろな方法を二人で考えていました。母は大変お人好しでしたので、ちょっとしたことにもびっくりするのです。そこで私たちは、夜ベッドに入ると、リンゴに紐をつけて脇に垂らし、ベッドの中から紐を引いたのです。リンゴは床にあたって奇妙な音をたてました。母はしばらくこの音を気に病んでいました。まさか幼い私たちがペテンを働くとは思っていなかったのでしょう。
母は村の人たちを呼んで、この奇怪な音を聞いてもらい相談するようになりラップ音を出す別の方法を考えなければならなくなりました。見物人の数はだんだん多くなりましたし、リンゴの音は私たちがベッドに入っていて、部屋が暗いときにしか出せません。
そこで私たちはベッドに入って部屋の明かりをすっかり消さなければ、音を出さないことにしました。
それでも見破られる危険がせまってきたので、こんどは片手でベッドの枠を叩く方法に切り換えました。
これらの演出は、全部、長姉のリアが取りしきっていました。私はそうして次第に有名になってまいりましたので、この姉に連れられて、活動の舞台をロチェスター市に移しました。
さらに、指を素早く動かし、握り拳と関節を使って音を出す方法を考案したのはキャサリンです。けれども、それをたやすくしかも効果的にできるようになるまで、私たちは暗い部屋の中で猛練習を続けました。足を振って鼓音を出すには、膝から下の筋肉をコントロールすることができるようになれば簡単です。この場合、足の指の骨とくるぶしの骨が音を出すのですが、このことは誰にも知られませんでした。けれども、そのような筋肉のコントロールは、幼いときに始めて、長い訓練を継続して初めてできることです。筋肉は年とともに柔軟さを失うものです。私は当時12歳になっていたので、この練習には少し歳をとりすぎていたようです。
ロチェスターでリアは、エキジビションを催しました。遠い地方からも大勢の人々が群れをなすように集まりました。リアの手には大金が入りました。集まった人たちの質問には、すべてに答えが出されました。それは『イエス』か『ノー』の二つだけですが、それは鼓音によって答えられたことは申すまでもありません。その答えはすべてレアからの合図によって選ばれたのでした。
1848年のデビュー以来今日に至るまで、私たちのペテンを臭いと思った人はほとんどいませんでした。それでも中には、私たちが本当の霊媒なのか、それともインチキなのかと疑った人たちもいました。そのためにたびたび試験のようなことをされました。ペンシルバニア大学のセイバード委員会における実験、ハーバード大学の教授たちを前にした実験などはそれでしたが、私たちは最後まで尻尾を出しませんでした。
私も妹も、霊魂の働きなど考えたこともありません。霊魂が肉体から離れて、またこの世に戻るなどということは信じられません。しかし、それを真実と信じきっている人は、世の中にたくさんいます。そこで私はそういう実例をこの目で見たいと思って、他の霊媒たちを観察したり、私自身も霊魂の便りを聞きたいと思っていろいろやってみましたが、結局そんなことは不可能であると確信するに至りました。私がケイン博士と結婚してから、博士は降霊術を忘れるように求めました。けれども、博士の死後、私は暮らしのためにそれを続けました。私の不運の原因は、『私の姉(リア)にある』と断言することができます。
私がこの度の暴露に踏み切ったのは、教会の勧告によるものではありません。私自身の決断によるもの。
交霊術は一種の手品です。ただし、上達するには並々ならぬ努力が必要です。私が多くの人たちに害悪を及ぼしたほどの腕をみがくためには、幼いときからの練習を続けることが必要だったのです。
このインチキを最初に考えだし、最も大きな成功をおさめた私の告白によって、これ以上、霊媒師が増えることを食い止められることを確信します。私の告白文は、交霊術なるものはすべて詐欺であり、偽善であり、妄想以外の何物でもないことを証明するものと信ずるものであります。
署名 マーガレット・フォックス・ケイン
姉妹のその後。懐疑と信奉のはざまで
無論、姉妹の告白を待たずとも懐疑派からはトリックであるとの指摘がなされていた。マーガレットの告白文でも触れられているセイバード委員会による試験によれば、彼女らの足を長椅子で伸ばさせ、踵をクッションにのせた状態では音が出なかったと報告されている。当時から「関節じゃないのか」という疑念はあったということだ。
マーガレットの夫が彼女に宛てた手紙の中にも「イカサマ」をたしなめる文章が散見される。
マギー、この気の重い相変わらずのインチキの繰り返しで、よく飽きないものだね……
もう『霊』は避けた方がいい。こんな悪とインチキに関わっている君のことを考えると、私は耐え難い思いだよ。こうして姉妹はインチキを告白した。
しかし、程なくして2人はその告白を撤回する。
告白の背景には姉妹のプロモーターであったリアへの反発があった、と2人は言う。拝金主義の長女リアを貶めんと『嘘の告白』をしたのだという。
カトリック教会の圧力、あるいは懐疑論者に750ドルで虚偽告白を依頼されたという本人たちの言葉も残っている。
一時期は年俸1200ドルで毎朝交霊会を開いたりで活発な姉妹であったが、その時期、妹のケイトが金に困っていたのは事実でアルコールに溺れて荒んだ生活を送っていたそうだ。
2人とも離婚を経験し、お世辞にも『幸せな』『裕福な』境遇ではなくなってゆく。
そうして、告白から一年も経たないうちに彼女たちは告白を撤回し、降霊を再開することになり金のために職業霊媒を再開した、と非難される。
アルコールと生活苦に苦しみながらも彼女たちは職業霊媒を続け、「騒霊は事実だ」と繰り返し呟きアルコール中毒と貧困にあえぎながらその生を終えた。長女のリアだけは彼女たちを見せ物にして稼いだ資産で裕福に暮らしたという。
1904年。姉妹の死後、事件の発端となったフォックス家の地下の壁が崩れ、人骨と錫の箱(行商人が良く使用する)が発見された。これをもって「やはり姉妹の霊媒能力は本物だった。あの告白もやはり圧力によるものだ」とする向きもあるそうだ。
だが錫の箱にかんしてもジェイムス・ハーヴェイ・ハイスロップという心霊研究家によってトリックである旨の報告書が出されている。
この事件に関しては、文献や書籍の類が無数に出ているが、それぞれの文献によって記されている事実が違う。姉妹の年齢も、最初に事件が起きた日付も、告白した理由、起こった事象。もはやどれが正しいのかわからない。懐疑論者は懐疑論に都合の良い情報を提示し、信奉者は信奉の材料となる情報を提示する。もはや文献から判断するしかない現代人としては判断に困るところである。
ジョー・ニッケルは3/31の金曜としているが、他の書籍では3/30の金曜としているものもあった。ちょっと調べれば分かることだが、1848年の3月30日は木曜日である。
次の日がエイプリルフールであることが記述に変化をもたらした……とは考えすぎだろうか。
ちなみに、ハイズビル事件で姉妹たちが『足割れさん』とは、二つに割れた足跡を意味する。
それはつまり山羊の下半身をもつ悪魔の蹄を指している。
軽薄なフォーティアンであるオカルト・クロニクルとしてはペテンともインチキとも判断しないが、少なくとも三姉妹の人生を狂わせた――霊媒人生を余儀なくさせたものが『ミスター・スプリットフット』であったことは事実であろう。
■参考文献
ニッケル博士の心霊現象謎解き講座 (Skeptic Library) 超常現象の事典 超常現象の科学 なぜ人は幽霊が見えるのか トンデモ超常現象99の真相 心霊研究辞典 だからあなたは騙される (角川oneテーマ21)