富士市UFO同乗事件――メルセデス星人のケース

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サハーの星にて

五度目の会見。7月30日。
例によって『意思に反して』ハンドルに導かれるまま車を走らせれば、佐藤氏は富士川の河川敷付近に着いた。

そこにはやはりヤツがおり、今日はUFOに乗せてくれるのだという。見上げれば、頭上25mほどの高さの位置にUFOが滞空しているではないか。

このUFOに関して説明し始めるとかなり冗長になってしまうので、要点だけ簡単に述べる。

・直径75m。

・発光。上部にだけ円形のドーム。そのドームを囲むように鍔状の円翼。

・地上からの搭乗時にはハッチから縄付きの板だか台だかが降りてくるので、乗って、上がる。

・内部はやはりドーム状。壁が東西南北で仕切るかのように四等分の区切りあり。壁一面に変な文字。

・ボタン多数、心電図のようなものがモニターされていた。

・『ヤツ』の仲間のヤツが機内に12人乗っていた。姿も顔も同じような感じ。

佐藤氏が搭乗したUFOの内部見取り図。

上からみると円形で、四方に東西南北を示すような針があり、それぞれの針のすぐ横に2列に6つずつ並んだ押しボタンが12個。メインフロアの少し上にドーム状の天井を一周する形でテラスのような回り廊下があり、そこに乗務員がくつろげるようテーブルやベッドがいくつかあった。という。
画像出典:UFOと宇宙 No34 1978年5月号


かくしてUFOに乗った佐藤氏だったが、ヤツらは急にサービス精神を発揮したのか、「どこか、見たいところがあれば連れて行ってあげましょう」という。
それならばと佐藤氏は「北海道が見たい」とリクエストした。

我々がテレビ番組や雑誌で培ったUFO観をもとに言えば、UFOに乗れば北海道への移動などほんの一瞬――造作もないことだろう。だが違った。

ヤツらは「いや、ここからは遠すぎる。東京なら良いでしょう」と勝手に要求をねじ曲げ、近場でごまかした。

そうして案内人のヤツが操縦士らしいヤツに宇宙語らしき言語で指示を出し、それから間もなく東京に着いた。
窓から見下ろす大都会東京――というワケではなく、ドーム状の天井に東京の夜景が映し出された。

そうしてヤツらは驚くべきことに「大気圏の外に行く」と佐藤さんに告げた。

宇宙より、北海道に飛んでゆく方が楽なのでは? などと考えるのは有人銀河旅行を成し遂げていない種族のヒガミなのかどうかは判らないが、とにかく飛んだ。ちょっと揺れた。

何処へ向かっているのか、とヤツらに問えど、ヤツらはヘラヘラ笑うばかりで教えてくれない。

やがて70mもあるという大スクリーンに美しい風景が映し出された。

チリ一つおちていない、ものすごくきれいな広い通りがあって、その突き当たりにカトリックみたいな大きな寺院が建っている画面が映ったんだよね。
その寺院の回りには、西洋館と言ったらいいのかなあ、そんな建物があり、それらの一軒一軒の屋根に、十字架がかかっていてね、原色が絶対使ってないんだね。
そして、その広い道一杯に、大昔の、例えばローマ時代みたいな服装をした人たちが歩いているんだよね。

寺院の鐘の音が、カーン、カーンと鳴って賛美歌と同じ歌をね、歌っているんだ。
――言葉はわからないけども、曲は同じだったね――それを見ていてね、キリストは、今の人類、もちろん地球のね、誕生以前からいたんじゃないか、と思ったね。

雑誌『宝島』昭和49年12月 第2巻8号 P235

寺院の前を歩いていたという『人々なヤツら』は、ほとんどが老人で西洋人のような印象を佐藤氏は受けた。

異星に『十字架』だの『地球と同じ賛美歌』と言われても荒唐無稽にしか思えないが、この旅行レポの最後に佐藤氏が「ヤツらはもの凄い技術を持っているから、もしかしたら、地球の過去を見せられたのかも」と補足している。

この日のUFO同乗レポの全行程は概ね45分。ついにヤツらの口から彼ら自身の名前が語られることはなかったが、佐藤氏は「アンドロメダの惑星から来ている、とハッキリ言った」とインタビューに応えている。

この後も何度かメルセデス星人たちとのコンタクトを重ねることになる佐藤氏であるが、第一次同乗事件までの流れは概ねこのようになっている。

他の異星人遭遇ケース――あまたの報告から我々の知るところでは、宇宙人だの異星人だのというのは、星間旅行を成し遂げた者としての驕りがあるのか、基本的に地球人を見下した陰湿な発言が目立つ。

これはプロブロガーを自称する者たちが定期的に一般的な勤め人をバカにせずにはいられない症状と似ている。
彼らプロブロガーが『社畜』と呼ぶ――満員電車で消耗しても社会に立ち向かい続けている者たち、誰かのために四方に頭を下げ続けている者たち――そんな社会人たちによって彼らの収益インフラ生活インフラがようやく維持されている事実に関しては考えが及ばないらしい。

まだ地球で消耗してる我々のことはともかく、このメルセデス星人も基本的に鼻につく態度で地球人を煽る。
佐藤氏を通じて知るヤツらの主張は以下のようなものだ。

・我々のような高等な種族を見習え。

・人類はぜんぜん進歩してない。

・石器時代の人類の方がマシ。あの頃は良かったナァ。

・公害と核実験をなんとかしろ。

・我ら高等種族は君ら地球人類種を『サハー』と呼んでいるよ。

・だいたい最近のサハーって思いやりがないよね。ここらへんも原始人のがマシ。

・ちなみに地球のことは『エゴ世界』って呼んでるよ。

・7年後にもう一度来るから、それまでに悔い改めとけよな。

・佐藤氏の他に4人ぐらいの『コンタクト・マン』がいる。機会があれば今後も増やしたいな。

・佐藤氏に『パワー』を与えた。それは佐藤氏が『善き人』であるから。

・人を憎むな、ねたむな、悲しむな、コレ三原則な。ぜったい守れよな。

おおむね、このようなことを言っていたらしい。

なんら具体的な対処法も提示せず、気に入らないモノにグチグチとネチっこい批判だけするような存在が高等種族だというなら、どこの職場にも一人はいるしTwitterにも沢山いるが、それはいい。我々なんて、しょせんエゴ世界産のサハーなのだから。

このように、にわかには受け入れがたい体験を佐藤氏はしたワケであるが、どうだろうか。

このケースを『にっぽん宇宙人白書 (1978年)』で読み、存じておられた諸兄などはココまでの記述の中に、また揚げ足を取るチャンスを見つけるかも知れない。

おい、金星に行ったって話はどうなったんだよ! 第一次同乗事件のとき、宇宙人白書には金星に行ったって書いてたぞ!」と。

そう、確かに『にっぽん宇宙人白書』のP216に金星旅行したシーンがきっちり書いてある。
ではなぜここでは省略したか? おそらく、ここがこのケースの一番重要な部分になる。

次節ではかき集めた資料をひっくり返して、別の角度からこのケースを見てみよう。


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A-List Actress

宇宙人と会見を持ち、友好的な意思疎通を行ったと主張する者をUFOロジスト界隈では『コンタクティー』と呼ぶ。

その一方で誘拐されたと主張する者は『アブダクティー』と呼ばれ、前者、コンタクティーで最も有名な人物はジョージ・アダムスキーで、UFO形状学に『アダムスキー型』と彼の名を冠した類型を残した。
後者『アブダクティー』属性の著名人ではベティ&バーニーのヒル夫妻が挙げられる。

どちらも世間にえも言われぬ爽やかな笑いを運ぶことが知られているが、とくにコンタクティーに関しては守備範囲であるはずのUFO研究家たちですら屈託のない爽やかな笑顔を見せてくれる。あるいは「やれやれ」という言葉を発することさえ惜しみ、ただ苦笑いし、肩をすくめ、首を横に振る。
彼らの言葉を代弁するなら「いやはや、なんともはや」だろう。

何故こんなことになっているのか?

これは歴史に名を残した著名コンタクティーたちの多くが虚言を弄したり、証拠として提出した写真のトリックを暴かれたり、科学的にあり得ない事実を主張をしたり、前言を撤回したりしたためだと考えられる。

たとえば、金星人、火星人、そして土星人などというバラエティーに富んだ種族に会ったと主張する者がいる。細木数子ではない、ジョージ・アダムスキーだ。

彼に触れた、ちょっと清涼感のある文章がASIOS著『UFO事件クロニクル』にあるので引用させて頂く。

その後、アダムスキーの主張はますます肥大し、62年3月には土星に行ったと主張し、ケネディ大統領やローマ法王に会ったと主張するようにもなった。
【中略】

しかし、アダムスキーのコンタクトの主張を裏付ける証拠は皆無といってよく、太陽系の全ての惑星や月の裏側に地球人と似た姿の住民がいる、太陽は熱くないなど、その後の宇宙探査はおろか当時の科学知識にも反する主張がふんだんに見られる。
また、彼が撮影したUFO写真については、トリックの疑惑が持たれており、アメリカの民間UFO研究団体GSWのコンピューター分析では吊り糸が発見されている。

いやはや、なんともはや。

当初、コンタクティーの信奉者たちは彼らの語る『体験談』や『宇宙人の語った宇宙』に対し、科学的事実に整合するような説明を試み、前向きな考察にもチャレンジしていた。が、どうしてもその矛盾を解消することができなかった。どう考えても太陽は熱いのだ。これはもう、しかたのない事実なのだ。

なのにボスのコンタクティーは次々と荒唐無稽な『新事実』を吐く。ボスのフォローだけでも大変なのに、メディア周りはボスをインチキだとペテン師だと騒ぎ立てる。

タフな者は「いやさ、コンタクティーが嘘吐きなんじゃなくて、宇宙人に嘘をつかれたんじゃないの」説を編み出したりしたが、少なくともコンタクティー事案に関して言えば、その説も大局をかえる救世主にはならなかった。やがて、疲れ切った信奉者たちは日常へ戻っていった。

一部は宗教色を強めることで団結し、信奉団体の存続を目指したが、神よりも何もしてくれない宇宙人に偉そうなことを言われても、ちっとも心に響かない。少なくとも神は不憫な牛を惨殺したりしないぞと、と。

かくしてコンタクティーたちは時代とともに求心力を失い、その多くが歴史の闇に消えていった。

今回取りあげている佐藤和俊氏も、まごうことなきコンタクティーである。

ただアダムスキービリー・マイヤー、そしてクロード・ヴォリロン=ラエル註:ラエリアン・ムーブメント)などのように、後援団体や支持者もなく、大きな神輿にはなれなかった。

それはなぜか?
わからない。時期が遅すぎたたからか、後発すぎたためか、あるいはカリスマ性に乏しかったからか?

佐藤氏がコンタクトを始めた1974年からの資料を見ても、否定的に取り扱っている資料は絶無だった。意外に思われるかも知れないが、ほとんどが肯定的ないし好意的に佐藤氏のコンタクト体験を取りあげている。時はUFOブーム、佐藤氏も第2のアダムスキーになれる可能性は充分にあったのではないか。

ただ一つだけ難点と思われるのは『話の整合性』かも知れない。

残されている資料――さほど多くもないその大半が、佐藤氏へのインタビューという形で記事を掲載しているが、これらを精査してゆくと、興味深いことがわかる。

ここで先ほどの『金星って書いてない問題』に戻ろう。

いま諸兄が読んでおられるこの記事は「雑誌『宝島』昭和49年12月 第2巻8号」に掲載された「横尾忠則の空飛ぶ円盤を求めて 第8回 佐藤和俊さんが富士市であった宇宙人と円盤」という記事を基軸にして書かれている。

この宝島に掲載された佐藤氏への長文インタビュー記事を元にして事件を再構成し、「矛盾が生じないかぎり」他の資料からの情報も取り入れ、一連の流れを提示した。

今回、この「矛盾が生じないかぎり」という部分に酷く苦労させられた。

たとえば、先の『第一次UFO同乗における金星問題』に関して言えば、『宝島』のインタビューと他資料のインタビューで、答えている内容がかなり違う。

宝島 1974年12月
・搭乗員は男の人が12人。
・北海道を断られて、東京に行った。
・大気圏を飛び出して、何処かの星にいった。無数の老人群、十字架の散見される綺麗な大通り、賛美歌が歌われていた。

空飛ぶ円盤同乗記―『月刊少年マガジン』1976.12号
・搭乗員は男の人が25人。西洋甲冑の兜のようなものを着用していた。
・行き先のリクエストをされて、まず九州へ行った。次に東京へ行った。首都高の車の流れがハッキリ見えた。
・大気圏を飛び出して、金星にいった。降りてみたいと言ったが、400度の高温で下船したら死ぬと言われた。
図は同誌より「金星にも動じなくなったタフな佐藤さん図」

にっぽん宇宙人白書 1978年3月
・搭乗員、見ただけで30人はいた。
・(国内旅行なし)
・大気圏を飛び出して、何処かの星にいった。夕焼けのような赤茶けた荒野が見渡すかぎり広がっている。金星だとヤツが言った。400度の高温で生き物が住める環境ではないと言われた。
・次にUFOは土星へ行った。霧のようなガスが充満しており、人の住める星じゃなかった。

(『UFOと宇宙 No.34 1978-5』に掲載された記事はにっぽん宇宙人白書の転載で、まったく同じ内容)
上から年代順にしてある。宝島はコンタクトの始まった年の年末ということで、入手できた資料の中でもっとも古いもので、事件の起こった時期に近く、詳細にまで触れている長文のインタビューであることからコレを基軸資料とした。

こうして全体を眺めると、最初のインタビューから年代を経るたびに話が大きくなっていることがわかる。

そして、ヤツらと佐藤さんはUFO同乗事件までに何度もコンタクトを重ねたが、その回数自体も年代を経るたびに増加している。

たとえば、『宝島』のインタビューでは
三回目のコンタクト「円盤の研究家の人たちを絶対信用するな忠告事件」
から、すぐに
四回目のコンタクト「水のようなモノを飲まされたよ事件」
が起こったと佐藤氏は主張している。

が、四年後に出版された『にっぽん宇宙人白書』では、この三回目と四回目の間に

・御殿場付近の山道で仮眠中、ヤツが来た。
3秒間だけUFOを見せてあげよう。1枚だけなら撮影してもいい」と、いつになく太っ腹な提案をしてくる。ヤツが姿を消して間もなく円筒形の物体が出現した。すかさず撮影に成功。しかし残念なことに、このときの写真は誰かに貸したらそのまま紛失した。

・数日後、ある海岸でヤツと会う。
あなたをテストするので、朝一番に東京駅のプラットホームへ行ってあたりを眺めてきなさい」との指示。佐藤氏は新幹線で東京駅に行き、プラットホームにてしばらく待機。
朝の通動ラッシュを眺める。愚かなサハーたちは電車が到着するたび、われ先にと駆け込み座席を奪い合う。
ああ、そうか。今の人間は本当に憐れなもんだ。これは、仏教でいう餓鬼の世界と同じだなあ」という感想。その足で帰宅。

という出来事が増えている。

そして、この二つを経てようやく「水飲み事件」の四回目に至り、その際にヤツらから会って早々「どうだった、東京は」と感想を聞かれるくだりが追加されている。

一応、宝島のインタビューの終盤で「東京へ行けと言われたことがある」という一文はあるので、記憶違いという可能性はあるものの、少なくとも同乗に至るまでの会見回数と内容は年月の経過と共に増加傾向が見てとれる。

エゴ世界に生きる、性格のよろしくないサハーの一人であるオカクロ特捜部としては、佐藤氏が雑誌などで答えた「初めてUFOを見たのは~」という申告の時期も精査した。これも結構食い違いがある。

宝島 1974年12月
はじめて見たのは1940年8月。200mほど上空にUFO。川が昼のように輝いた。父親は龍神だと言った。それから1950年までは何も見なかったが、1950年、直径30㎝和尚山(カショウザン)ともう一つの山の間をキリキリ周りながらUFOが飛んでいった。土星型だった。
それから1971年まで1年に3~4回、星より少し大きなモノから薬指の爪ぐらいのものがシュンシュン飛んで、直角に上昇したり降下するのを見るようになった。

ニッポン宇宙人白書 他
初めてUFOを目撃したのは1973年夏
他、『サンジャック』1976年9月号、『プレイボーイ』1974年6月4日号も73年夏だったとしている。

空飛ぶ円盤同乗記
初めて見たのは、忘れもしない、1974年2月15日 午前2時30分の事だった、と発言。
トラックを追ってくるUFO。急いで家まで戻るも、自宅まで付いてきた


面白くもない検証をここまで頑張って読んだ諸兄も、どっと疲れが来たことだろうと思う。

言いたくないが、言わざるを得ない。作り話を正確に繰り返すのは難しい、と。

ゆっくりと落ち着いて作成できる文面で行うものならいざしらず、インタビュアーを目の前にして、前回即興で話したことをミスも矛盾もなく話して聞かせる、というのは至難の業だろう。インタビュアーが前回と違えば油断も生まれる。

あくまでも個人的な感想に過ぎないが、ここまで挙げてきた矛盾点だけをみても、佐藤氏の体験談にはかなり多くの嘘――あるいはその全てが創作である可能性がきわめて高いと思われる。

注意深い諸兄なら、検証節までの『宝島』を元にした記述の中にも、(宇宙人という存在の是非という根本的な話ではなく)どうにも整合性のとれない証言があったことに気がついたかも知れない、が。これはあえて、二人だけの内緒にしておきましょう。


だが、全てが佐藤氏のデッチ上げであったとしても、どこか引っかかる――まだ広げた資料を閉じてはいけない、そんな気がする。

次ページにつづく。

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