血の雨前線、北上中
先ごろ、我々は、我々が魚やカエルなどが降る珍奇な星に下宿している事実を認めた。だがそれを現実とふまえた上でも『より奇妙な』モノが降ってくることがある。
たとえば、1876年アメリカ、ケンタッキー州バス郡ランキンで起こった『ケンタッキー肉の雨事件』が挙げられる。
これは同年3月3日、同郡の畑に『新鮮な赤身の肉』が雨のように降り注いだというものだ。報道によれば、肉片はおおむね5cm~10cmであり、当日は晴天だった。
これが何肉だったか――は定かでないが、当初は藻の一種でないかとされ、地元のハンターは「熊の肉」と主張し、科学協会は「馬肉か人間の子供の組織」、果敢にも食べてみた男たちの感想では「羊か鹿の肉」と評価が分かれた。1
似たケースでは1850年、ノースカロライナ州シンプソンでの事例がある。
これも農場に「鮮血、脳組織、そして内蔵の断片がぼたぼたと落ちてきた」と。このケースでは不穏な赤い雲が肉雨の直前に見られたという。2
同年のバージニア州クローバリーでも、いわく「筋肉、肝臓、肺臓、そして心臓下部の塊に違いない」モノが降っている。当日がキリスト受難日にあたった事から、「イエスの血肉」と騒がれた。この際も奇妙な雲が目撃されており、その雲がすぎると血肉の雨もやんだという。3
ほかも似たような事件が1851年イタリア、1869年米国サンタクララ、1968年ブラジル,サンパウロなどで起こっているが、極めつけに気持ち悪いのは1869年、カリフォルニア州ロス・ニエトス郡区でのケースだろう。
『San Francisco Evening Bulletin』紙4によれば、この日、陽光照りつけるJ・ハドソン氏の農場にて――やはり雲ひとつない晴天であったにも関わらず――唐突に血と肉、そして黒い髪の毛がおよそ3分間に渡って降り注いだ。
この時の肉は短冊状で2.5cmから15cm、多くの人がこの珍事のからくりを知りたがったが、モノの由来も原因もよく分からなかった。犯人として鳥などが疑われたが、その日、その空に鳥は見られず、だいいち何百ポンドもの『血肉と髪の毛』を8000平方メートルに渡って爆撃――埋めつくす鳥とは想像し難い。
大量に降った『不愉快な物質』のうち、いくらかのサンプルを見せられたロサンゼルス・ニュースの編集者は、結局「なんだろう」と首をひねっただけで保管はしなかった。5
あきらかに『部品』だけが降った例もある。
『Fortean Times』2005年11月号によれば、1986年3月の西ドイツにて、一人の市民が車を運転しているとき天井に何かが当たった音がした。車を停めて確認してみると、それは人間の指だった。市民はすぐさま警察に通報し、当局による捜査が始まったが、結局なぜ指が降ってきたのかは判明しなかった。もちろん、遺失物届けも出されておらず、持ち主も現れなかった。6
一連の血肉雨騒動のなかで一部、「食べてみた(笑)」という事例があるが、これは普通に引く。魚なら理解できるが、何肉かもわからん謎肉を「食べてみた(笑)」じゃないだろう。再生数がほしいYouTuberでもここまではしない。
しかし『摂食に適した降りモノ』に着目すると、我々人類は意外と降りモノを食べている。
『食べられる降りモノ』ケースでいちばん有名なものは、有史以来この世界で一番読まれているベストセラー書籍に見つけることができる。『聖書』だ。
旧約聖書における出エジプト記、そして民数記に記されている『マナ』の逸話である。
その一面の露が上がると、見よ、荒野の表には地に降りた白い霜のような細かいもの、ウロコのような細かいものがあった。
イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです
出エジプト記 16:14-15 (新改訳聖書刊行会版)
飢える民たちに天からもたらされた謎の食物、これにより人々は砂漠で命をつないだ。いわゆる『マナ・フロウ』である。このマナが何であったかは判然としないが、その調理法と味については同旧約聖書における民数記に詳しい。
人々は歩きまわって、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。
夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれと一緒に降った。
民数記 11:8-9 (新改訳聖書刊行会版) おいしそう。
諸兄などは考え方が根本的にセコいからして「ヤハウェの縄張りはいいねぇ、カタギに甘くてさ! 神道・仏教圏で損したわ、お供えばっか要求して、シミったれでかなわねぇ」とか浅はかに考えるかも知れないが、どうも『マナ・シャワー』に関して言えば、宗教文化圏の限りはないようだ。
探してみれば、紀元前191年頃、中国の桂宮陽望に『米』が降ったという事例が記録されており7、日本においては丁寧なことに行器(=ほかい。儀礼、行楽などに用いる食物を入れる箱)に入れられた状態の赤飯が降ってきた。開けると湯気が立ったという。8
この赤飯フロウは1641年ごろ宮城県仙台市での出来事らしいが、村人たちは食べずにそのままその場に埋め、その上に祠を建てて祀ったそうな。
その祠、歴史をかさねて近代にいたるまで周辺の民草を見守ってきた――が、仙台市の広報によれば、団地を作る際に邪魔だから撤去したそうで、残念ながら現存しない。
かような行いには祟りなどが懸念されるが、まぁモチ米ごときに祟られたところでどうという事もない。黙って祝い事に炊かれてろと。
パンにしたマナ、そして炊く米。このあたりは仄かに文化圏の違いが見て取れるが、アジアにも一応、もっとマナマナしいモノも降っている。
古来、中国では善政がしかれたり、陰陽の調和が取れていたりすると、天から甘露が降ったとされる。
こと日本でも古くは680年ごろにやはり「甘露が降った」との記録を見つけることができる。
『蒼梧随筆』によれば大阪は難波に長さ150~180cm、幅21~24cmの「綿のようなもの」が降り、松林や葦の原に漂ったという。
なんとなく、風で飛んだフンドシなどを疑ってしまうが、「人々はそれを甘露と呼んだ」とあるので、甘露なのだろう。9
甘露などという言葉の響きをして、甘いものに目がない諸兄諸姉などは味が気になるところかも知れない。
その味覚に関する記録は『月堂見聞集』に見ることができる。1729年5月16日、兵庫県豊岡市のあたりに降った甘露は桃の木などの葉を濡らし――「露は乾きてなし、其跡白き光あり、ねぶりて見るに甚だ甘し」とあり、やはりイメージ通りすこぶる甘かったようだ。光っていた――というのがやや不気味ではあるが、それはいい。タピオカだって客観的に見れば不気味きわまる。10
他にも708年から853年にかけて断続的に甘露フロウの報告は続き、場所も山口、広島、鳥取、島根、奈良、福井、静岡と広範囲に渡る。
石川県では飢饉のさいに「空から降ってきた石のような白いものを食べて飢えをしのいだよ」という出エジプト記をなぞるような記録が残されており、その味「甘味にして乳のごとし」と、なんとなく不二家ミルキー感がある。11
これら、広義でのマナシャワー事例を見てゆくと、それ、つまりはマナが「他の降りモノだった可能性」も浮上する。
例えば、中国で降った『米』は露骨であるとしても、降ったモノが(当地の人々にとって未知の)穀物なり食物であったことも考えられる。ファフロツキーズ事例における『プラント・シャワー』に相当するのではないか、と。
たとえば、『米』などはそっくりそのままの事例が1952年、ミャンマーのマンダレーで起こった。
デイリー・テレグラフ紙(1952年1月10日付)によれば、通りでライスシャワーに遭遇した人々は我先にと米をかき集めたという。12
スロベニアはケルンテン地方では、1558年によくわからない穀物が2時間にわたって降った。それでなんとなくパンを作ったら美味しかったと記録されている。
日本でも
「空から麦や蕎麦などが降ったが本物ではない(1790年,広島県)」13
「水口から伊勢路に大豆に似た謎の実が降った、拾って団子にして食べた(1733年,滋賀県~三重県)14」
「夜行中、小豆に似た謎豆がはらはらと傘を打った(1816,大分県)15」
などがあり、特に奇妙なものとしては、「ねばねばするカイワレの種で家が覆われる」という海外の事例を奇現象研究科のジョン・スペンサーが紹介している。16
アイルランドでは759年に小麦とともに蜂蜜が降ったという記録もあり、これなどはまさに甘露だろう。17
フルーツが降る事例も少なからず記録されており、ちょうど、英国ランカシャー州アクリントンでは、ヘイソンホワイト家の屋根に産地不明の大量のリンゴが降り注いだといい18、これがほんとの『リンゴあめ』である。
1833年イタリアのナポリではオレンジ19、1961年にはルイジアナ州シュリーブポートに桃が降っている20。
かくして我々の住む地球が、やはり珍奇きわまる星であること――その確信は揺るぎなくなった。
マナも降り、米、ソバ、大豆に小豆、そしてよくわからんネバネバに、リンゴあめ――。
特に触れなかったが、下位分類を漁ればトウモロコシの皮やナッツの殻、草など、心底どうでもいいモノも降っている。行儀の悪い天使の食べ残しなのか。奇妙な星である。
本稿とあまり関係はないが、共感できる叫びを旧約聖書の民数記で見つけたので引用しておく。
4:また彼らのうちに混ざってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。
民数記 11:4 (新改訳聖書刊行会版) わかる。
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空と君とのあいだには
これまで挙げたような事例を収集し、ほくそ笑む気持ち悪い人たちがいる。いわゆるフォーティアンと呼ばれる人たちだ。
彼らは、その命名の由来となったチャールズ・フォート(Charles Hoy Fort 1874-1932)に倣い、現在も奇妙な出来事を幅広く集め、並べ、分類し、やはりほくそ笑んでいる。
彼らの偉大な始祖フォートは長きにわたり図書館に篭り、古新聞をひっくり返しては『奇妙な事例』の発掘に勤しんだが、そんな彼がことさら執着したのがファフロツキーズ現象でもあった。
フォートは1932年に亡くなるが、それから現代に至るまで、奇現象――いわゆるフォーティアン・フェノメナは収集され続けており、その質はともかく数は膨大、膨張を続けている。(フォート自身は「6万件以上あつめたよ!」と著作で言及している)
現代でも語り継がれるファフロツキーズの事例のなかで19世記半ば以降の古い――いわゆる『クラシック』な事例などは、調べてゆけばその多くがフォートの発掘によるものであることがわかる。
フォートには悪癖、つまりは『様々な事例を集める事によって、“特異点をひたすら無視し、画一的な事象の説明に終始する軽薄な科学者たち”に、嫌がらせする』というパンクな行動理念があった。
これにより新聞メディアなどからは『科学の反逆者』とアダ名されることになる。クチの悪い輩は『ユーモア作家』とまで言う。
基本的にフォーティアンという人たちは、こうしたフォートの精神的DNAを受継ぐせいか、フォート同様、性格に難がある――つまりは『偏屈者』を類語辞典で引いたときにそこに並ぶ語すべてに該当するような――者たちである。
たとえば、ファフロツキーズ現象における『竜巻説』に対し、「じゃあ降ったミミズはどうなのさ!」とせっせと例外を見つけてきては食ってかかる――ような反逆的な態度もそれに該当する。
良く言及されることだが、フォート自身はファフロツキーズ現象を説明するひとつの解答として「空の上にあるかも知れないサルガッソ海(魔の海として有名。海藻により船が動けなくなる)に起因するかも知れない」として、『超サルガッソー海仮説(The Super-Sargasso Sea21)』を提唱した。
天空のサルガッソ海に囚われた、あわれな魚やカエルたちが、時たまその呪縛から上手く逃げおおせて、地上に降ってくるんじゃないの、というモノだ。
だが、フォート自身、この『超サルガッソ海仮説』に拘泥することも執着することも無かった。そもそも、信じていなかったと考えるのが妥当だ。「ノリで言ったことが広まって草」というのが本音だろう。なぜなら、『説明せんとする仮説』が著作によりコロコロ変わるからだ。
この件に関してはコリン・ウィルソンが爽やかに切り込んでいる。
だがフォートは、『呪われた者の書』においても、そのあとに続く三冊の著作においても、首尾一貫した主張を展開しようと試みてはいない。
ただある頁で、1860年のインド上空には一種の大陸が浮かんでいた、そしてまた次の頁では、われわれの宇宙に対応する宇宙のようなものが別の「次元」に存在している、という記述がなされているだけであり、このふたつの指摘にしてもフォートが真面目に取り組んでいるとは思えないだろう。
彼の目的は、科学者に「怒りと苦痛」を与え、また彼らの仮定を検証するようしむけることにあった。だがこの狙いは成功しない。
科学者たちはフォートを無視したのである。
コリン・ウィルソン – 『ミステリーズ―オカルト・超自然・PSIの探究』P206 現代的に表現すれば、「かまってちゃん、かまちょ失敗の巻」でござる――という事になるのでござろう。
コリン・ウィルソンは「事象の『解明』についてフォートは真面目に取り組んでいない」と評したが、こと『瞬間移動』に関しては、様々な奇現象の原因と考えることが可能として、それなりに真剣に向き合っていた。
ギリシャ語の『tele(遠隔)』とラテン語『portare(運搬)』から鞄語となる『テレポーテーション』を考案し、説明を試みた。
この本では主に、私がテレポーテーションと呼ぶ輸送力が実際に存在する可能性――その証明に多くのページを割いている。
私は、嘘、うわさ話、デマ、迷信を集めたと非難されるだろう。ある程度は私もそう思っているが、ある程度はそうではない。私はただデータを提供しよう。
Charles Fort -『LO!』 パート1 チャプター2
たとえば、ファフロツキーズ現象や一部の未確認生物の小分類に『そこにいるはずのない生物』『場違いな生物』とされるものがある。
フォートは当時からたびたび目撃・報告されていたこれらの『場違い生物』ケースを並べ、テレポートが起こった可能性を読者に突きつける。
例としてあげれば、1921年、英国サセックス州ニューウィックでのケースがある。
英国ロンドン――『Daily Mail』紙が伝えるところによれば、コックス少佐の家の近くにあった池は、空っぽ――水抜きされ、泥も取り除かれていた。11月にはそんな空っぽだったその池だが、翌年の5月には魚(テンチ:コイ目コイ科、淡水魚)が溢れかえっていた。22
1930年11月30日付の『ニューヨーク・タイムズ』紙では、川と隔絶している場所になぜか繁殖したウナギの話が掲載されている。23
フォートが触れたモノではないが、1816年の『哲学年報』誌では東インド諸島のプリンス・オブ・ウェールズ島(現:マレーシア,ペナン島)の話に触れている。
この島では屋根の上に雨水を貯めるタンクを設置している事が多く、通常タンク内は乾燥して空の状態であるのだが、雨季がすぎた頃にはなぜか溜まった水の中に小魚が泳いでいるのだという。24
『ポリネシア研究』第2巻にも、よく似たケースが報告されている。
それはやはり魚たちがアクセスしがたいと思える岩の窪みなどに魚が繁殖している場合があるのだと。現地の住民たちは、それらを『トパタウア』と呼び、空から来たと考えているという。25
これらは現在では、やや解決済みのミステリーとなっているがそれは後に触れるとして――
このような魚たち――よもや航空力学に通じているとも思えないモノたちが、どのようにして隔絶された場所に来たか。そのミステリーに対し、フォートはテレポートというアイデアをそっくりハメ込むことで解決を図った。
たとえばサカナに限らずその場にそぐわない生物――場違いな動物が見つかった事例などもそうだろう。
1911年米国インディアナ州でワニが一頭だけ落ちてきた例はその典型であろうし、1956年米国カリフォルニ州サンマテオではスワンソン夫人宅の裏庭に『死んだ猿が落ちてきた』事例もある。このケースでは物干し網に落ちたため、その支柱がポッキリ折れていた。26
落ちてきたワケでもなさそうだが、似たような場違い生物の事例として、1969年テネシー州のケースがタフでいい。
ロックブリッジに住むリピー夫人の鶏小屋を何者かが荒らすので夫人は迷惑していた。警戒していたある夜、鶏たちが騒ぐのでライフルを片手に駆けつけてみれば褐色の毛をした何かが鶏小屋から飛び出し、遁走を図った。だが遅い、あまりにも逃げる判断が――遅すぎた。そうリピー夫人は、もう、そこに居たのだから。
齢82歳の未亡人はライフルを静かに構え、逃亡者に照準をあわせ――「天使どもによろしくな。地獄なら――そう悪魔にでも」
そうして倒れたターゲットを確認してみれば、それはサル、体長40センチ近くある熱帯産のサルだった。警察も住民たちも、なぜこんな山奥に熱帯産のサルがいたのか理解に苦しんだ。
似たようなケースにフォートも触れている。1929年9月19日付ニュージャージー州ハッケンサック・メドウズにて、やはりいるはずのないワニがいたので、やはりタフな住民によって撃たれた。27
もう少し大きい生物もいる。『Fortean Resesrch Journal』V2,No1によれば、1896年にフロリダにはいるはずのないゾウが運河で死んでいるところを発見されている。報道によると「ゾウの行方不明報告はありませんでした」28
黎明期のフォーティアンたちは、こうした『さもテレポートしてきたかのように思える場違いな生物』事例から、そっくりファフロツキーズ現象も説明できるのではないか、そう考えたのだ。
中空にテレポートしてきたサカナがいると仮定し、運の良いものは水場に、そうでないモノは地表に降ったのではないか――ということだ。
サルやワニ、サカナやシーフードより、もっと航空力学に通じていなさそうなモノも、テレポートなら「落ちてくる説明」がつくのかも知れない――と。次は全く別の降りモノを見てみよう。
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