サン・メダール教会―狂信者に起こる奇跡

スポンサーリンク
『奇跡が起こっている』そう噂される教会内では酸鼻を極める地獄絵図が繰り広げられていた。見物にきた者は泣く、吐く、逃げ出す。
サン・メダール教会に奇跡の治癒はあったのか。

噂の教会、万病に効果アリ。

1727年、フランソワ・ド・パリ(François de Pâris 1690-1727)という若き助祭神父の埋葬が行われた。

フランスはパリ、ゴブラン通りの北のはずれ。最初の奇跡はその葬儀で起こったとされる。

葬儀に集まった群衆はフランソワ・ド・パリの死を悼み涙を流し、花を手向け、彼の棺をサン・メダール教会の祭壇裏の墓に安置した。

最後の別れを告げてゆく群衆のなかに、足の不自由な子供が(註:“足萎え”と表現される)おり、その子が棺に近づくと奇妙な現象が起こった。

その子の全身が激しく痙攣を始め、気味悪くも身をよじり始めたのだ。

「これはどうしたものか」突然の発作に周囲の人々は戸惑い、葬儀の妨げにならぬようその子の身柄を教会の片隅に引き摺っていった。

そこで、嘘のように痙攣が止まり、その子は目を見開いた。

なにが起きたのか把握できない様子で自分を取り囲む人々を見回し、やがて子供はゆっくりと立ち上がった。

その子は、筋肉のほとんどないはずの萎えた足で地面を蹴り、飛びはね、歓喜に歌い出したという。

呆気にとられた群衆は何が起きたのかわからなかった、立てるはずのない子が立っている。これはなんだ、と。
やがて誰かが言った。「奇跡だ、奇跡が起こった!」

これで終われば、この場所もルルドの泉のように『美しい奇跡』で終われたにちがいない。おなじ奇跡の治癒を謳いながら、もう一方のサン・メダール教会が『奇跡の例』としてほとんど取り上げられない理由はこののちの状況を知れば万人が頷くことだろう。

フランソワ・ド・パリは何者か

奇跡の発端となったフランソワ・ド・パリはジャンセニスムの信奉者であった。

ジャンセニスムはカトリックの一派でコルネリウス・ヤンセンの主張する教理に基づくものである。人間は生まれつき罪に汚れており、恩寵の導きなしには善へ向かい得ないとする。

ジャンセニスムは当時、フランスの貴族社会で流行していたが、バチカンはこれを潔しとせず、ジャンセニスムを定罪とする大勅書を発布した。

Francois_de_Paris

フランソワ・ド・パリ


この教義は極端な体験主義で苦痛や苦行はすべて自身の身をもって体験せねばならず、フランソワ・ド・パリも苛烈な苦行を繰り返していた。

足に血が滲むまで石の上を歩き、鉄製のワイヤーで身をくるんで書棚のうえで眠る。どれだけ寒い冬の日でも、いっさい暖をとらない。腕には尖ったスパイクのついたベルト……。

いささかにマゾヒズム的な修練であるが、当の信奉者はこれが天国へゆく、あるいは神との対話に近づく道だと信じていた。

1712年に流行した天然痘は、フランソワ・ド・パリの顔に酷い痕跡を残したが、彼はその醜形の苦悩さえも神に感謝したのだという。

極端な信仰ではあったが、彼自身は真摯に取り組んでいたようだ。手に入る収入はすべて貧しい人々に分け与え、自らは常に極貧の状況にあった。それがゆえに近隣の住民からは愛され、頼りにされていたのだろう。

36歳の若さで貧困の中で没するが、葬儀に多くの人たちが集まったのはその人気の証左ともいえる。口の悪い連中は、彼が日常的に行っていた尋常ならざる苦行が彼の死を早めたのだと噂しあった。

サンメダール教会の奇蹟

フランソワ・ド・パリの死後、前述の足が治癒した少年の件もあり、人々の間ではフランソワ・ド・パリの墓へお参りすると、病気がたちどころに治ってしまうというという噂が語られた。

噂が広まると、カトリックの本山が「そんなものはインチキか悪魔の仕業に決まっている」と否定的な声明を出したが、当のサン・メダール教会の中庭では現在進行形で奇跡の治癒が起こっているのだと目撃者たちは口を揃える。

曲がった足は即座にピンと直る。肌に隆起する腫瘍もポロリととれる。
光を失った目はもう一度光を感じ、苦痛に苦しみ身をもだえる者に笑顔が戻る。

それでも当時フランスの上流階級に属する人々は、カトリック本山であるイエズス会の説明が正しいとして取り合おうとはしなかった。もとよりフランソワ・ド・パリを精神的支柱にしていた者は貧しい者たちばかりであり、富める者はイエズス会こそを精神的支柱としていた。

現在のサン・メダール教会


「サン・メダール? あんなモノは貧乏人がおかしくなって、騒いでいるだけだ」というわけである。

だが一部の懐疑派や好事家が『調査』と称して物見遊山で見物に出かけている。
その際に目撃された『奇跡』があまりにも不可解であり異様であった。

法律家であったルイ・アドリアン・ド・ページュが見てきたさまを友人であった判事ルイ・バシーユ・カレ・ド・モンジェロンに語ったが、モンジェロンは信じない。

そんなものはインチキ、詐欺の類に決まっている。そこいらの広場で披露される奇術師の『奇跡』だ。騙される方がどうかしている。

だが法律家であったページュが興奮冷めやらず騒ぎ立てるのを目の当たりにして、モンジェロンは興味を持った。これほどのインテリがどんな手品に騙されたのか、見ておく価値はあるだろう――。

かくして1731年9月7日の朝、モンジェロンはページュに同行してサン・メダール教会の中庭へと赴いた。

そして調査を終え、教会から去るとき、モンジェロンは別人となっていた。

裁判でサン・メダールで見た出来事を否定するよりも、投獄の憂き目を甘受するほどに。そう、彼は奇跡を見た。

sponsored link

判事が見た奇妙で異様な世界

フランソワ・ド・パリの葬儀
異様な奇跡はここから始まった。


※この先の記述は食事中の方や体調のすぐれない方にはオススメできません。
サン・メダール教会の中庭に赴いて、モンジェロンが最初に見たのは女たちだった。

彼女たちは蛇のように地上にのたうち、足の踵が頭につくほどに身体を弓なりにしていた。

彼女たちは一様に長い肌着を身につけており、その袖を足首のあたりで縛っていた。同行したページュの説明によれば、フランソワ助祭の祝福を得るための正装、つまりは義務なのだと。薄い肌着を身に纏い、身体を以上に痙攣させて弓なりになったり逆立ちをしたり。

最初の頃は肌着姿の女たちを見物するために若い男が大勢やってきたのだという。けしからん事である。

境内にいるのはほとんどが女性であったが、男も居ないわけではない。モンジェロンが目にした男性は『仕事』をもっていた。やはり痙攣した女を棍棒で叩き、打ちのめす仕事だ。

木製であったり金属製であったりする棒、あるいは重いハンマーで殴打されて苦痛を感じないわけがない。彼女たちは胸、脇腹、背中、臀部を力一杯叩かれている。だが女たちは悲鳴を上げるどころか時折、愉悦の表情までうかべているではないか。

地面に横たわっている娘の上に、彼女の華奢な身体を押しつぶさんがばかりの岩石がのせられている。

上半身裸の娘は乳首を男の持つヤットコによって無造作にひねりあげられている。

ページュの説明によれば、彼女たちはいずれも苦痛を感じないのだという。それどころか、「もっと打ってくれ」と、「もっと酷い目にあわせてくれ」とせがんでくる。なんとも、“その道”のプレイを嗜む諸兄にはたまらないメ○豚的な懇願ぷりであるが、彼女たちはこの拷問にも『苦行』によって様々な病が完治するのだと信じていた。

彼女たちはコンヴァルション派、つまりは痙攣派と呼ばれジャンセニスムの超異端に位置付けされている。鞭打ちなどがコンヴァルション派の初級~中級だとすると、ここからは完全に上級者たちの修練となる。

教会の別の場所へ案内されたモンジェロンは、治癒の実践を目撃することとなる。

その部屋では、舐膿(ていのう)を行うという。

部屋には少女がふたり。1人は床に座り、1人は骨と皮ばかりで床に寝転がっている。

寝転がっている少女の足には汚れた包帯が幾重にも巻かれており、傷の状態が芳しくないことは明白だった。傷の悪化に伴い壊疽した足から膿が滲みだしている。
その悪臭と包帯の汚れは足が最悪の状態であることを万人に理解させる。

しかし、その具合が悪ければ悪いほど痙攣派の彼女にはこの上ない喜びなのだという。
床に座った少女は愉悦の表情を浮かべながら、病人の包帯をむしり解き始める。血と膿で固く張り付いた包帯を剥がすように解き、やがて目を背けたくなるような患部が露出される。膿汁の臭いが胸を焼く。

その状態に痙攣派の少女は、一瞬怯んだように見えたがすぐに眼に力を宿し、叫んだ。

「おお、主よ。この少女の治療に私をお定めくださった貴方を、私は祝福いたします!」

そうして彼女は傷口に顔を近づけ、赤い舌を出した。戸惑いながらも患部を丹念に舐め、やがてそれは一心不乱の吸引へと変わる。
大きな音をたて、膿を吸い始めた。恍惚の表情で。
これも“その道”のプレイを嗜む諸兄にはたまらない状況であろうが、諸兄らは言うのでしょうね、「舐めるのはそこじゃない」と。

下品な冗談はともかく、かなり胸を悪くしたモンジェロンは引き返そうかとも思ったが、勇気を出して先に進んだ。
そして奇妙な世界はまだまだ続く。次の場所に近づくにつれて、モンジェロンの鼻先に悪臭がふれた。

嫌な予感しかしないが、モンジェロンは導かれるまま部屋に入る。

そこに少女がいた。頬をバラ色に染めたうら若き乙女。齢にして18歳ほどで、手記に特筆されるほど美形だった。

この乙女は潔癖症であり、誰かが触れたパンはいっさい口にできないという――汚れを異常に気にしてしまう性質に思い悩んでいたそうだ。
それを克服するため、奇跡を求めて教会に訪れたのだという。

修行の初めは穏やかなものだった。
それは数日間に及ぶ断食に始まり、それからパンと水だけの食事を続けた。

やがて、本人の希望で1日に1度、雄牛の胆汁をスプーンひとさじ舐めるようになった。

そんなある日、彼女は腹痛を覚えた。凄まじい痛みに気が遠くなってゆく。
脂汗をかいて耐えていた瞬間、彼女の身体の中で大きな音がした。本人曰く、それは体内で肋骨が何本か折れた音のように感じた。

気絶していた彼女が意識を取り戻すと、自分が『お漏らし』していることに気付いた。
小さい方も、大きい方も、である。

彼女は慌てて、漏らしたそれを口に放り込み、そこいらに付着した汚物をきれいに掻きとって舐めてしまった。
これが食糞の始まりだった。

モンジェロンが訪れた時には、1ヶ月のうち21日間は糞尿を飲み食いして過ごしていた。
1日約500グラムの糞尿の摂取で充分生きてゆけるのだと。

驚いたことに献立のようなものまで存在しており、ある時は人糞を水で薄めてスープにして啜り、あるときは火で炙って食する。
またある時は煙突の煤や堆肥、爪の切りくずを入れて味を調整するのだと。

モンジェロンが見たとき、彼女はテーブルで食事をとっていた。確かに人糞を口に運び、それを咀嚼すると、コップに入った黄色の液体で流し込んでいる。

しかし、彼女自身に悪臭はまとわりつかず、香水のようないい香りまで漂わせていたそうだ。

食事が終わると、彼女はコップを持って席を立ち、見物人の1人に歩み寄った。そしてコップを手渡す。

何をする気かわからず、見物人がたじろいでいると彼女はそのコップに口を近づけ、吐いた。

「すわ『いま食べたもの』を嘔吐するか」、と見物人が身を捩るも、吐き出されたそれは汚物ではない。清純に白い液体だった。

友人のページュによればそれは牛乳である。ページュ自身も以前訪れた際に体験しているのだ。

ページュはその牛乳を持ち帰り、飼っている猫に与えたと言うからこれまた衝撃的だ。

汚物を食べて牛乳を吐く乙女。これは奇現象なんてものではない。

ここまでくるとモンジェロンはもはや抗議の意志を失っていたが、異様な奇跡は続く。

次に現れたのはガブリエル・モレという名の16歳の少女だった。当時でも彼女はスバ抜けた痙攣派で有名だった。その名を聞いて数人が感嘆の声を漏らすほどだ。

彼女はマントを脱ぐと、床に寝転がった。

仰向けに寝た彼女をまたいで、男たちが立つ。その手にはシャベルや鉄の杭、槍が握られている。

ガブリエルが微笑むと、男の1人がおもむろに、大きく振りかぶって槍を彼女の腹に突き立てた。モンジェロンは取り乱すが、制止されて動けない。

腹から槍が抜かれるが、彼女は平然と微笑んでいるだけだ。

次に鉄杭が彼女の口の中を貫いた。
頸ががくんと上を向く。だが杭が抜かれてみると、やはり彼女は微笑を取り戻す。

次はシャベルだ。男たちがシャベルを渾身の力で彼女の身体に突き立てる。
胸に刺さったシャベルも、首に突き立てられたシャベルも、彼女の身体を傷つけること叶わない。

鉄の棒で頭部を一撃されても平気。

25キロの石を高所から落とされても平気。

最後に彼女は燃えさかる炎の中に自らの頭を押し込んだ。だが髪の毛も眉も皮膚も、少しも焦げない。そればかりか彼女は赤く燃えさかる石炭を口に放り込んで食べたのだという。
オランダの不死身男ミリン・ダヨも真っ青である。

騒動の収束

ショックを受けたモンジェロンは、その後も幾度かサン・メダール教会を訪れ、見聞した事象を本にまとめた。
当時啓蒙主義が盛んであったため、それを献上されたルイ15世は「やだ、こんなんあるワケないじゃないのよ!」と激怒し、モンジェロンは裁判を経て投獄されてしまう。

それでもモンジェロンは自らの調査したものが奇跡であったことを頑なに証言し続け、解放されたのちに2冊の本をまとめた。

パリの治安当局も事態を重く見てサン・メダール教会の閉鎖を命じ、痙攣派の弾圧を始める。

だが弾圧された痙攣派はほうぼうに散らばっただけで、各地で活動を続けたそうだ。
のちに、懐疑論者で科学者のラ・コンダミーヌもモンジェロンとおなじ興奮を味わった。その際はシスター・フランソワーズという女性が磔刑の再現を行ったそうだ。

彼女は木製の十字架に釘や杭で磔にされて、数時間放置された。キリストと同じように脇腹を槍で刺され、出血するのをコンダミーヌも確認している。だが彼女はその責め苦に耐えきったのだという。

その後、弾圧と徹底した禁止の布告が出され痙攣派はもとよりその母体となったジャンセニスムも淘汰された。

かくしてサン・メダールで起こった異様なる奇跡は、調査資料にのみ知ることができる。

奇跡はあったのか

この事象を扱った資料に『男性』の奇跡はない。最初の少年を除けばどの奇跡的治癒も女性に起こっている。
これをして、サン・メダール教会の奇跡とジェンダー論を結びつける考察が多いものの、調べれば一応男性にも奇跡的治癒が起こっているようだ。

・奇跡的治癒を主張した116人のうち70%は女性。

・1772年当時に痙攣を経験した推定270人のうち、211名は女性。

・1773年~1774年の間に逮捕された痙攣派の90%が女性。

大半が女性ではあるが、一応男性も含まれている

だがやはりこの事件は『セイラム魔女裁判―清廉潔白のグロテスク(別項)』と同じく、集団ヒステリー女性特有のヒステリー症状宗教的感受性をからめて合理的解決としている場合が多い。

オカルト・クロニクルとしては、まず『治癒したのか?』という大前提が気になるところ。

膿吸い少女の件は、膿を吸う異様さだけが際だち、その後の経過が残っていない。

糞尿食口から牛乳少女=潔癖症の治癒

とあるが、これは性格を改造された洗脳のようなものだと思われる。なぜ潔癖症が治ると牛乳をはき出すようになるか、その因果関係はよくわからないが。ちなみに牛乳だって雑菌は存在する。

杭も棒も炎も効かない無敵のガブリエル・モレ。
これは奇跡的治癒というか、大道芸の類だと思う。余談であるが、磔刑のパフォーマンスをした女性は3日後に亡くなったとある

奇怪な行動が取り沙汰される一方で治癒の事例はほとんど触れられることがない。
それこそ最初の少年だけが治癒を主張するだけ。

懐疑的な立場から見れば、これは壮大なパフォーマンスだったのだろうという結論が手っ取り早い。

どの奇跡や苦行も、第三者に強烈な印象を残すように綿密に計算し、教会ぐるみのトリックを仕込めば人を騙すのは難しい事ではない。

実際に似たような見せ物小屋やサーカスの演目も珍しくなく、当時の情報流通を考えれば『奇跡』と喧伝してもトリックを暴くデバンカーなどの耳に届きにくく、かつ暴かれたとしてもさほど広まらないんじゃないかと思われる。

ふと思い当たるのが18世紀から20世紀初頭に現れた無数の女性霊媒師たちだ。

当時は現代のように『歌姫』や『セレブ』になる道がほとんどなく、女性が抑圧されていたこともあってか、注目を浴びるために霊媒師を自称しパフォーマンスを行った事例も多々ある。
同じようにサン・メダールの一件も注目を集めたい女性が『神の寵愛を受けたアタシ』を演じていた可能性も否定できないんじゃなかろうか。

ただ、どれほど注釈や解釈を付け加えたとしても、『糞尿を食らって代わりにミルクをはき出す』という事象は説明できないし、するべきではないだろう。
本当に奇跡であるならば、そんな能力を与えた神を呪うべきであろうし、パフォーマンスであるならば思いついた発想力を他に生かすべきだったのではないだろうか。

ともかく、出自の怪しいミルクを飲まされた猫が実に不憫である。

タイトルとURLをコピーしました