ペイシェンス・ワース 本物のゴースト・ライター

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ウイジャ盤で呼び出された霊は、次々にアルファベットを指していった。綴られてゆく文字は、やがて文章となり、文節となり、小説となった。やや冗長で、やや難解で、ややウザい。それは『The Sorry Tale』と題され出版された。孤高の幽霊作家ペイシェンス・ワースのデビュー作である。

ウイジャ盤の怪

PatienceWorth33

パール・カラン夫人


1912年8月。ミズーリ州はセントルイス。
そこには何気ない日常があり、2人の婦人が何気ない時間を楽しんでいた。
有閑婦人の目の前にはウイジャ盤がある。

婦人のうち1人はエミリー・ハッチング。1人がパール・カラン(Pearl Lenore Pollard Curran)である。
彼女らの夫はいずれも実業家であり、家庭は裕福といって差し支えない経済状態だった。
ウイジャ盤は日本で言うところのコックリさんであり、お世辞にもあまり品の良い遊びとは言えない。少なくとも夫たちはそう考えており、ウイジャ盤に興じているパール・カラン夫人も同様の考えだった。
つまり、降霊に熱中していたのはエイミー・ハッチング1人である。

だが、この日はいつもと違った。

ウイジャ盤の指示器が、文字らしき羅列を指し示したからだ。

「ほら! なんか来たわよパール!」
「そんなワケないじゃない……」

こんな会話が交わされたかどうかは定かではないが、エイミーにますます熱が入る。
コレは前兆に違いない、と2人はその後10ヶ月にわたってウイジャ盤に興じ続けた。

そして、異変は1913年6月22日に起こった。

その日のウイジャ盤はいつもとひと味違った。
『PAT』という文字列を数回繰り返した後、唐突に文章を綴り始めたのだ。
おお、なにゆえに悲しみを汝が心に入るるや? 汝が胸はその養い母にすぎず 世界はその揺籃(ゆりかご)、家郷はその墓所にすぎず。

世界不思議百科より

なんだこれは。
文章として成り立ってはいるが、古語ばかりで小難しい。だが知的ではある。

ウイジャ盤は似たようなヴィクトリア朝時代を感じさせる文節をはき出し続ける。
休み給へかし、やつれ果てし心よ。 かの陽の光をのみ内なる寺院へ入れさせ給へ。 一筋の光貫きて凍れる魂を暖めることあらん。

世界不思議百科より

詩的で警句含みの文章である。2人は驚いた。
なんだかウザい感じではあるが、たしかに文章が生み出されたのだ。

これってすごい!
これを境にウイジャ盤による交信が繰り返されることとなる。

ペイシェンス・ワースとは誰か

PatienceWorth2

ウイジャ盤に興じるご婦人がたの図


なんだか小難しい言葉を生み出す存在。
やはりそれが誰であるのか気になるところである。例に漏れず、2人の婦人も「貴方は何者ですか?」と訊ねた。
しかし、答えない。
難しい言葉ばかりをはき出してくる。
――全てはヴェールの裏にてかくも明らかなり。
意味がわからない。
いやさ、名前を教えて下さいよ、名前をさ。と2人が再び問うと、返答があった。

――かくも近きもの何故に名にこだはるや? 陽は野薔薇にも山薔薇にも等しく照るものなり。
答えたくないらしい。それになんだか、ちょっぴりウザい。
こうして盤上の霊はノラリクラリと名前を出さずにいたが、それでも2人がしつこく質問し続けると、ようやく答えた。

――あまたの月過ぐる日々、我は生きたり。我再びここに来たれり。
――ペイシェンス・ワースこそ我が名なり。

名前あるじゃん、じゃあ――と次の質問を考えた2人にペイシェンス・ワースは先手を打ってきた。

――我がこと、汝らいずれ多くを知るべし。昨日は死者なりき。
いまはこれ以上言わないよ、ということらしかった。

冗長で、やや難解、堅苦しい文体。これはこれ以後のペイシェンス・ワースの特徴として、最後まで変わることはなかった。
なんとも皮肉なことだが、ペイシェンス・ワースが交信に応じるのはウイジャ盤に熱中しているエイミーではなく、パールだけだった。エイミーが1人でペイシェンス・ワースと交信しようとしても、指示器はウンともスンとも言わない。
どうもペイシェンス・ワースは霊的存在に懐疑的だったパール・カラム夫人がお気に召したらしい。

逆に、嫌われたのはパールの母親ポラードだ。
エイミーが「ポラードのことどうおもう?」とペイシェンス・ワースに問うと、すぐに返事が返ってきた。

――男どもは、かの女をさらすべし。
さらす? 意味がわからない。エイミーがさらに訊ねる。
「さらし台に足枷をつけて乗せろとか、そういうこと?」

――しかり。さらに二日間放置すべし。
死人のクセにけっこう酷いことを言う。

やがて、ウイジャ盤で行われていた交信は、パール夫人による『自動書記』に変更された。ウイジャ盤でおこなうよりも、遙かに効率的だ。
パールが白紙を目の前に、ペンを手に目を閉じると、ペイシェンス・ワースがパールの手を借りてサラサラと筆記してゆくという寸法だ。

そして辛抱強く交信を行ってゆくと、やがてペイシェンス・ワースの人物像が少しずつ明らかになっていった。

まずイギリス出身であること。1650年にドーセットシャーで生まれた。
そして1670年にニューイングランドへ移住し、その移民先でインディアン(ネイティブ・アメリカン)に襲撃され喉をかき切られて殺されたクエーカー教徒の女性であった。とペイシェンス・ワースは語った。
※男性であったとする話もあったが、多くの資料で女性として扱われているのでオカクロは女性として扱う。
ペイシェンスとの対話は彼女の綴る文章のおかげでなかなか面倒であり、時間がかかる。
1913年9月11日、まだウイジャ盤を使って交信していた頃、パール夫人がペイシェンスにスピードアップを促したことがある。するとペイシェンスはこう返答した。

PW――Beat the hound and lose the hare.
猟犬を叩かば、野ウサギを失はむ』つまりは急いては事を仕損じる、と言いたいらしい。終始このような回りくどい対応で、古語を多用することもあって理解するのに苦労させられた。
ウォルター・フランクリン・プリンスが著した『The Case Of Patience Worth』から会話文を別ページに抜粋しておく。興味のある人はチェックされたし。『ペイシェンス・ワースとのテーブルトーク:別ページ』

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文筆活動と予言

ペイシェンス・ワースは約25年にもおよぶ活動期間で、6の小説、数百ページの詩編、そして膨大な会話文を残している。
初期の小説を書き上げた頃には、ペイシェンスワースと名乗る霊とパール・カランはちょっとした有名人になっていた。セントルイス・グローブ・デモクラット紙で特集が組まれたからだ。そして他紙の新聞記者も自動筆記に立ち会った際に感銘を受け、その名は全米にとどろくに至った。

死者が書いた小説というのは充分な話題性を含んだモノであったが、どうも作家として見込みはなさそうだと専門家はため息を漏らした。
書かれた小説が面白ければ申し分ない。だが、ペイシェンスの綴った小説は冗長かつ難解で、説教くさい。それに我慢して最後まで読み込んでも、ご褒美といえるカタルシスは得られない。単純に、つまらないのだ。

それでもほとんどの作品は出版され、論争を呼ぶこととなる。
心霊的技術により生み出されたその作品を『文学』として高く評価するメディアと専門家がいる一方、その逆も充分にあった。

世界不思議百科によれば、以下のような文章が延々と続く。
「羊は風雨に迷い、めえと鳴き、丘々で羊は丘を迷いぬ」
「ローマ男どもは刃をあらはにし、空気はローマの唇の囀りの祈りの叫びに満ちたり」

訳注では原文が欠点だらけであること、修辞の珍妙と稚拙について言及している。
こんなモノが延々と続いたのでは、よほどの好事家でない限り小説として楽しめないのは明白だ。

作家としてはイマイチであるかもしれないが、興味深い事例として、ペイシェンスが予言をおこなったという話がある。

クリスマス直前、いつものように交霊を行っていたエイミー・ハッチングスは「パールは私に何をプレゼントする?」とペイシェンスに訊ねた。
すると
――15個、1個割れ。 と返ってきた。
逆に、エイミーのプレゼント内容をパールが問うと
――テーブル用品、クロスステッチ。
クリスマスになって、プレゼントが配達されるとペイシェンスの予言はそのものズバリだった。
15個、1個割れ』→送られたのは15個の壺で、うち1個が配達のおりに割れてしまっていた。
テーブル用品、クロスステッチ』→十字縫いのあるテーブルクロス。

同じように、ポラード(パールの母)が自分が娘に何を用意しているか当ててごらんと言うと
――消えることのない燃える欲望。蝋でみがく信仰。常に燃え続ける。 例によって回りくどい言い回しであるが、これは蝋燭立てと蝋燭消しを正確に言い当てたとされた。

いや、パールが動かしてるんじゃ?

PatienceWorth1

若かれし日のパール・カラン。決して醜くはない……と思う。


ペイシェンス・ワースなどというのは存在しない、存在したとしてもそれはパール・カランの第2人格であろう。そんな指摘は当時からあった。
パール・カランは学生時代、勉学に無関心な生徒だった。
自分の容姿を醜く思い、それが原因かは定かでないがノイローゼとなりハイスクールを中退している。

だから、というのは軽薄な意見ではあるが二重人格、あるいは精神薄弱に起因する詐術だったのではないかという懐疑的見解もある。

アーサー・デルロイという人物はペイシェンスの作品に対し、「ドアノブ以上の価値はない」とこき下ろし、使用した古語の類も、教会の日曜学校で学んだモノだろうと貶した。
これに対し、ペイシェンスはこのように反論した。

――竪琴を弾じ これを愚か歌の赴くままにただよわするは愚者の仕業なり。賢者の手これに触るるをも厭う時に。
なんだか、例によって反論なのかそうじゃないのかよくわからないが、デルロイもこれに対しパロディの再反論を行った。

――然らず。汝は我を貴種とせるなり。我は東方よりの賢者にあらず。かの賢者は言葉終わることなきを願い、ペイシェンスなる御仁の壱百萬の語を書くも忍耐以て待つものかな。
洒落をきかせた応酬であったが、アーサー・デルロイ自身が霊媒であったことを考えると、この応酬に向けられた世間の白い目が想像に難くない。

ペイシェンスの著作である『悲しい物語』は1世紀キリストの時代を舞台にした歴史小説で、その評価もまちまちだ。

マニトバ大学のW・T・アリスン英文学教授は「聖書以外に、主の時代のパレスチナ王国におけるユダヤ人やローマ人の生活について、これほど詳細に描いた本はない」と評価している。パールにはこの時代の歴史的知識が皆無だったというが、検証する側が必ずしも正しい歴史的知識を有しているかどうかにオカクロは懐疑的なので著作に対する検証は余り意味が感じられない。懐疑派にも懐疑である。

だいたい、ペイシェンス・ワース自身が16世紀の人物であることを自称しているのに、西暦ゼロ年前後のことを知悉していることに関しては……。疑問が残る。タイムスリップというやつだろうか? 霊なら何でもアリなのか?

ちなみに当時もいた懐疑派に対し、ペイシェンスはパフォーマンスを行っている。
35時間で7万語からなる詩を書いた。――1分間に33語。文字ではなく語であるなら1分間に33の単語を書いた事になる。凄いのか凄くないのかはよくわからないが。このパフォーマンスに関してペイシェンスは自分がパール・カランの一部ではなく、独立した人格であることを証明するために書いたと言った。

ではペイシェンス・ワースとは何者か?
彼女が言うとおり、1670年に渡米してきてインディアンに殺されたクエーカー教徒の女性がいたのか。きっといただろう。ただその数多くの入植者の中にペイシェンス・ワースという名を持つ女性が本当にいたのかどうかは証明されていない。
ペイシェンス・ワースは自分のいた市町村の詳細を語ることはなかった。イギリス南西部のドーセットシャー(現ドーセット)だという話もあるが、彼女を特定する渡航資料、戸籍資料などは残っていない。
――幽霊たちは嘘つきだ。だから彼らの供述はアテにならない。と言った心霊肯定派もいたようだが、これには疲れを覚えざるを得ない。

15年ほどの間、多くの科学者がペイシェンス・ワースを調べたが、結果は良くわからなかった。
詐術を行える可能性が少しでもあったなら、霊媒や超能力者の類は必ずその『少し』を利用するのか。これにYESと答えるのも個人的には誠実ではないと思う。
職業霊媒などその行為に金銭が絡んでいる場合はビジネスとしてその『少し』の隙間を利用するのかも知れないが、少なくとパール・カランに関して言えばペイシェンスのおかげで出費がかさみ苦労していた。
ペイシェンス自身は「――後の時に財布は太るであろう」とパールが儲けることを予言しているが、これは外れている。ペイシェンスのせいで出費はかさむ一方だった。

結局、現在に至るまでペイシェンス・ワースが何者であるか知っている者はいない。

塵は塵へ その後のペイシェンスワース

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ウイジャ盤の盤面図。国産のコックリさんなどとほとんど同じ形態である。


カラン夫妻には子供がなく、とある出産前の未亡人から生まれてくる子供を養子にもらう約束をしていた。
そして『悲しい物語』の執筆中、突然にペイシェンスが「これでよし」と言った。その1時間後、遠くの病院で赤子が生まれた。

その子はペイシェンスの指示によって、ペイシェンス・ワース・ウィー・カランと名付けられた。やり過ぎのように思うが、それだけ入れ込んでいたと言う証明でもある。

しかし、入れ込む夫妻と対照的に、当初はセンセーショナルであったペイシェンス・ワース現象も、人気にかげりが見え始める。
著書はほとんど売れず、ペイシェンスの専門雑誌も廃刊となる。それでもペイシェンスは文章を生み出し続けた。

ここで悲劇が訪れる。パールの夫であるジョン・カランが亡くなったのだ。
パールは子供を抱え経済的に貧窮した。老いた母親と幼い娘をかかえ、にっちもさっちもいかない。
金銭を絡ませることを固辞していたパールであるが、ここで初めて講演の申し出を受けることになる。

だが、時代は彼女を置いて先へ先へと進んでいた。
多くの者がペイシェンス・ワースという奇現象に興味を失っており、著作や詩編はほとんど見向きもされなくなっていた。

1934年、娘であるペイシェンス・ワース・ウィー・カランが19歳で結婚したとき、ペイシェンス・ワースは喜んだらしく長文の祝辞を送っている。例によって冗長でやや難解で、ちょっぴりウザい文章だった。署名には『汝の母者人』とあったそうだ。

3年後の1937年11月。パールが友人に「ペイシェンスが道が終わりになったと言った」と呟いた。当初、その意味はよくわからなかったが、そんな意味不明はいつものこと。誰も気にとめなかった。
そしてその年の12月パール・カランは急死した。54歳だった。
娘のペイシェンス・ワース・ウィー・カランも27歳の若さで急逝すると、誰からともなく噂がたった。「ペイシェンス・ワースが連れて行ったに違いない……」

あれからペイシェンス・ワースが現れたことはない。
詐術だったのか、あるいは本当のゴーストライターだったのか。全ては過去になってしまい、現在では彼女の残したいくつかの作品によってその時代を感じることが許されるのみだ。参考文献リンクにペイシェンス・ワース著『悲しき物語』のPDFファイルへのリンクを貼っておくので英語に堪能な方は挑戦してみてはどうだろう。彼女の著作は現在でも購入可能だ。

冗長で、小難しく、少々ウザい。個人的にはその強烈な作風と個性にどこか愛着すら感じてしまう。

この項がここまで冗長になったのも、彼女の霊の仕業かも知れない。饒舌な彼女ならきっとこうキーボードを叩くだろう。
――然り、文才あらばかようにはならざりけむ。と。

■参考文献及びサイト 世界不思議百科 ストレンジ・ワールド〈PART3〉 超常現象の事典 The Case Of Patience Worth: PDF Patience Worth:wikipedia The Sorry Tale:E-Text PDF『悲しき物語』
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