獣人ヒバゴン ― 昭和の闇に消えた幻の怪物

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ヒバゴンのく頃に

近年、妖怪ブームがあった。

言わずもがな、『妖怪ウオッチ』により人気に火が付き、妖怪関連本が凄まじい勢いで刷られたと聞く。

ヒバゴンはどうだったろうか。
このブームに乗れただろうか。乗れなかったか。そもそも、ヒバゴンの立ち位置はなんなんだ?

では終焉の近いブーム終盤の徒花として、ヒバゴンを妖怪の類として見てみよう。

日本で似た妖怪あげるなら、『狒々(ヒヒ)』『猩々(ショウジョウ)』『覚(サトリ)』『山童(ヤマワロ)』あたりが目につく。

さとり

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』よりサトリの図。
画像出典:wikipedia:覚


どれも山に住むと言われる妖怪であるが簡単に特徴だけあげておくと

狒々:獰猛。人間を見ると大笑いし、唇が捲れて目まで覆う。
猩々:様々な伝承により、イメージが複雑。猿っぽい何か。海にも出るらしい。
覚:人の心を読む。「山彦」のモデルとなった説がある。
山童:陸にあがった河童。
となっている。

巨大すぎて候補には挙げなかったが、妖怪『山男』などは絶滅した類人猿のギガントピテクスがモデルになったという話もあり、それがヒマラヤのイエティなどと紐づけられて考察されている。

こうして、ヒバゴンのイメージに近いと思われる日本に伝わる妖怪を探してみたが、どうだろうか。

実はヒバゴンと呼ばれた生物は、過去には狒々と呼ばれていた――そう考えるとロマンがあるようにも思えるが、正直つまらない。
オカクロ特捜部が妖怪に詳しくないだけに、話も広がらない。

そこで、ここはある民話から、ヒバゴン伝説に迫ってみよう。

しっぺい太郎に知らせるな説

もしかしたら、ヒバゴンという存在は大昔から存在していたのではないか。
そうであるならば、なんらかの民話として残っていないだろうか――と強引に調べを進めてみると、有名なある民話に突き当たった。

しっぺい太郎の猿神退治』だ。

概要を書けば、以下のようになる。



ある旅の行者が山奥の村で、悲しむ村人たちと遭遇する。

村人たちに話を聞けば、毎年秋祭りが近づくと年頃の娘がいる家に白羽の矢が立ち、その白羽の矢が立った家は、娘を山の社に生贄として差し出さねばならないのだという。そして、今日がその秋祭りの日であると。

行者は「なんだよ! 神が生け贄を望むなんて、なんだか神の道に反するじゃないか!」といつもの諸兄のごとく憤り、生贄を求めているのが本当に神であるかを調べてやろうと、社の下に潜り込んだ。

夜も更けると、闇のどこかから三体の怪物が現れ、生贄っ娘をいれた棺を囲んで唄い、踊り始めた。

「しっぺい太郎はおるまいな」 「近江の国の長浜の しっぺい太郎はおるまいな」 「このことばかりは知られるな しっぺい太郎に知られるな」
となんとも説明臭い歌を歌う。

これはダチョウ倶楽部セオリーに倣うなら、『しっぺい太郎を呼べ』と言うことだ。行者は空気を読んでその地名と名前を必死で覚えた。生贄っ娘は喰われた。

翌朝、行者は近江へ旅立った。

ようやくで近江国へと辿り着いたが、近江の国をどれほど探しても『しっぺい太郎』という名の者は見つからない。

行者が諦めかけたころ、「しっぺい太郎という犬ならいるよ」という情報を得た。寺で飼われている山犬の子がしっぺい太郎という名であるという。

そして、行者はしっぺい太郎を村へ連れて戻った。ちょうど、秋祭りの時期だった。

今年も村は暗い。やはり『白羽の矢が立った』からだ。そこで、生贄の棺にしっぺい太郎を押し込み、行者は去年と同じく社の下に隠れた。

秋祭りの夜がふけると、やはり闇のどこかから三体の怪物が現れ、棺を囲んで唄い、踊り始めた。

「しっぺい太郎はおるまいな」 「近江の国の長浜の しっぺい太郎はおるまいな」 「このことばかりは知られるな しっぺい太郎に知られるな」
その瞬間、棺からしっぺい太郎が飛び出した。

ジャーンジャーンジャーン、「げえっ、しっぺい!」
3対1の激しい戦いが始まり、しっぺい太郎は譲らず、怪物も退かなかった。

そうして朝が来ると、怪物の死体が社の前に転がり、しっぺい太郎は姿を消していた。怪物は醜く年老いた大きな狒々だった。

社の前にはしっぺい太郎の血が残っており、それが点々と近江の国へ向かって続いていた。





犬派のオカルトクロニクルとしては、胸にこみ上げるモノがある話である。

この民話は広く全国に伝わっており、それぞれ細部が違う。

しっぺい太郎が生き残ったもののあれば、死んでしまった話もある。個人的には上記の未確定な話が好みである。

民俗学者の小林光一郎氏の論文によれば、この猿神退治に似た構造を持った民話は全国に227話伝わっており、そのうち116話は怪物を退治するのが犬でなく『岩見重太郎 or 猟師』となっており、101話が『犬(山犬含む)』である。(他は 猫3話 神 狼 蟹 蜘蛛)

退治される化け物は猿98話(狒々、狒々猿、マントヒヒ)が一番多く、他には狸、むじな、猫、鬼、蛇、狼、バッタ、蛸、いちょうの木、地蔵などがある。

バッタぐらい自分で倒せと言いたくなるが、それはいい。

ちなみに、犬の名も、『しっぺい太郎』『早太郎』が有名であるが、青森方面では『すつぺ太郎』、秋田は『素平太郎』。
他にも『竹篦太郎』『すっぺえ太郎』『藤三郎』『めっけ犬』『べんべこ太郎』『カンマン太郎』などがある。

ともかく、全国に類似した話が伝わるこの猿神退治の伝説であるが、調べてみれば、比婆山のある中国山地に結構な数が集まっている。

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この図は小林光一郎氏によって『日本昔話集成』『日本昔話大成』『日本昔話通観』から抽出された猿神伝説をもとにマッピングさせていただいた。

緑色の円は、比婆山西城町を中心に半径100kmである。

なんだか、中国山地に伝承が集中しているように思われないだろうか。

山口県はどうなってるんだ。

もちろん、これは印象操作というもので、全国的に見ればこの中国山地だけに限って多いわけでなく、東北地方の奥羽山脈も中国山地に負けず劣らず集中している。
中国山地と奥羽山脈の二大巨頭だ。

例によってオカクロ名物の牽強付会ではあるが、この2つのエリアのいずれかが『猿神伝説』の発祥の地と考えることはできないだろうか。

ここで諸兄に思い出して欲しい。
中国山地である広島で『ヒバゴン』が目撃されたように、奥羽山脈を擁する岩手県でも『ガタゴン』騒動があったことを。

もしかしたら、遙か昔、実際になんらかの『不可解かつ迷惑きわまる猿的な生き物』が中国山地と奥羽山脈に存在し、それらが伝承として残り、全国へと伝播して行ったのかも知れない。
そして、1970年代に、それらの残党がそれぞれ『ヒバゴン』だの『ガタゴン』として目撃されたのかも知れない。

実際に『猿神退治』の元になったと思われる話が『今昔物語集巻二十六』に「美作國神依猟師謀止生贄語」として残されている。美作国といえば、現在の岡山県北部にあたる。


『今昔物語集』猿神退治。 引用:『岡山県備前地方や徳島県那賀郡木頭地方では、猿神は憑き物とされる。これに憑かれた人間は暴れ出すといい、その害は犬神よりも大きいという』 憑きモノというのは興味深い。

『今昔物語集』猿神退治。
引用:『また岡山県備前地方や徳島県那賀郡木頭地方では、猿神は憑き物とされる。これに憑かれた人間は暴れ出すといい、その害は犬神よりも大きいという』
憑きモノというのは面白い。
引用及び画像wikipedia:猿神


オカクロとしてはあまり重点を置いていないが、比婆郡には『いにしえのピラミッド』があるというオカルト話がある。

これは1934年(昭和9年)5月、中国新聞に記事が掲載され一部の好事家のハートをヒートさせた。

現在における広島県庄原市本村町にある『葦嶽山(あしたけやま)』がそうだ。

この葦嶽山は『どの角度から見ても見事な三角形』『ギザの三大ピラミッドより古い』、その山道や頂上に存在する巨石が『ドルメン(支石墓)』や『供物台』なのだという。

この説を発表したのが酒井勝軍というオカルト界隈に馴染みの深い人物である。
酒井の主張によれば、葦嶽山はエジプトのそれとは違い、自然の地形を利用しながら半人工的に石や土を積み上げて建造されたものだそうだ。

ここは現在、パワースポットとして注目されており、観光地として整備もできている。
ドルメンや供物台も見物できるそうなので、興味ある諸兄はどうぞ。

国産ピラミッドの真偽は置いておくとして、この葦嶽山はUFOがたびたび目撃されることでも有名だと『パワースポットニッポン』に書いてある。

そして、並木先生の著作によれば、ちょうどヒバゴン騒動が終焉にさしかかった1974年。この年の9月から11月にかけて、広島県の東部一帯でUFOフラップ(集中目撃)が起こっている。

庄原市の隣にあたる三次市高杉町では1991年ミステリーサークルが発見されたことを『げいびグラフ』が報じている。


UMAにピラミッドに、UFO。
広島はいったいどうなってるんだ。


超常現象の調査で名高いジョン・A・キールは、ビッグフットとUFOが同時期に目撃されることを指摘し、そういった事が頻発する地域を『ウィンドウ』と呼んだが、この庄原市も『窓』なのかも知れない。

では、これら一連の奇妙な出来事を個別に考えるのではなく、一連の物語として捉えた場合どうだろうか。


つまり、遙か昔の中国山地。葦嶽山を本拠地とする猿神が存在していた。
人をさらってはいかにも宇宙人らしく人体実験を行っていた。
『白羽の矢』はUFOから照射される何らかの光線をあらわしていた――つまりヒバゴンは猿神だったんだよ!

アモーレ2

アッモーレ!

どうだろうか。

嘘は大きければ大きいほどバレにくい、とアドルフ・ヒトラーは言ったと聞く。
ヨタ話もこれぐらい巨大な大風呂敷を敷けばバレないかも知れない。

でもまぁ、1つの可能性としてね。こういうこと、あるかもね、ということで。


一応、猿神をしっぺい太郎が倒すバーションも作っておいたので貼っておく。


アモーレdog2

冗談はこれくらいにして、もう少し現実的な目線でヒバゴンに迫ってみよう。


未知の猿人説

一連の騒動に先立つ30年前、ある木こりの妻が大ザルとまぐわって子を産んだ。その子が行方不明のまま――。

という噂話が当時あった。

もちろん、デマである。

言うまでもないが、人間とサルの間に子供はできない。

余談だが、過去旧ソ連である実験が行われた。

人間に最も近いゲノムをもつチンパンジーと人間の女性の間に子供を作り、『超兵士』を作ろうというモノだ。自殺志願者の女性が被験体に名乗り出て、受精実験が繰り返し行われた。
実際には『超兵士計画』というのは都市伝説だったようだが、実験自体は行われ、その全てが失敗に終わっている。

『常識的な意味』での未知の猿人類なら、それが一般的に想起されるUMAヒバゴンと言うべきかも知れない――が証拠は一切無い。

月刊ムー400号記念号で『ヒバゴンの死体発見か!?』という記事があるが、ソース元がショックサイエンスで知られる飛鳥昭雄氏であるので、深くは触れない。

獣人ザナの例を引き合いに出すまでもなく、現時点で獣人が実在するという証拠らしい証拠はない。

とはいえ、『猿神=零落した神』という考え方があり、その神が神らしい神なら、神話よろしく人間との間に子供を――と散漫に考えたが、こう言うのはちゃんとしたオカルトサイトに任せてオカクロでは触れない。


山の民説

これも噂が流れた。

昭和の初め頃、1人の娘があやまちから身重になり、山へ隠れ住んだ。何日も村人による捜索が行われたが、結局見つからず――。

つまりヒバゴンはその娘の落とし子じゃねぇの? という話だ。

検証のしようがないが、一代で毛むくじゃらになるほど環境に適応できるのだろうか。多毛症ならあるいは――ではあるが。

同じようなものに、『戦時中に村で生まれた毛むくじゃらの子供が逃げ出した説』がある。
ほかにも『サンカ説』や『ホームレス説』などが散見されるが、どうだろうか。

ヒバゴン権威サイト『謎の怪獣 ヒバゴンはどこへ行ったのか?』さんでは、「まぁないだろうね」というスタンスの上で『戦時中の生き残り兵説』に触れておられる。

戦争の終結後、28年目にわたってグアムの密林で隠れ住んでいた横井さんは帰国後一大センセーションを巻き起こした。

とはいえ日本の情報がまったく入らないグアム島ならともかくも、日本兵が日本国内で終戦に気付かず25年間も潜伏するとは思えない。いたとしたら、ヒバゴンより希少だ。


ここで、オカクロとしても諸説に1つの可能性を紛れ込ませておく。

当時の新聞記事。 『出た!ヒバゴン』と見出しが躍っているが、これは山野町で目撃されたため後にヤマゴンと命名される個体。 ヤマゴンはちょっとマッチョである。

当時の新聞記事。
『出た!ヒバゴン』と見出しが躍っているが、これは山野町で目撃されたため後にヤマゴンと命名される個体。西城町によるヒバゴン終結宣言から5年後の出来事ではあるが、露骨にそっち系UMAである。
ヤマゴンはちょっとマッチョ。
画像出典:読売新聞1980年11月14日付


時は1970年代。

学生運動、全共闘運動の最盛期である。
新左翼と呼ばれる活動家たちがテロリズムによって世界を変えようとしていた時代だ。

67年に羽田事件が勃発。ヒバゴン騒動の前年1969年には『東大安田講堂事件』が起こっている。

この時期に起こった左派による事件を羅列すると。

69年 ピース缶爆弾事件。(爆弾による死者1名、子供含む負傷者3名。未解決)

70年3月 よど号ハイジャック事件。
71年8月 朝霞自衛官殺害事件。
71年11月 渋谷暴動事件。
その後、多数の死亡者を出した連合赤軍による統括リンチ山岳ベース事件あさま山荘事件に歴史が繋がってゆく。

ちょうど、ヒバゴンが初目撃される前年1969年4月12日、中国山地を背にする岡山大学でも活動家から投石を受けた機動隊員が死亡する事件が起こっている。

1969年4月12日には、岡山大学において、学生の投石により機動隊員が頭部に直撃を受けて重傷を負い、同日夜に死亡する事件が起こった。

これは岡山大学の学生による学生課長及び、教養部教官に対する集団暴行傷害事件が発生し、大学長が学生十数名を告発したことに伴い岡山県警が強制捜査を実施していた際に起きた事件で、学生約150人は警察官に激しい投石を行い、執行を妨害。
その際、学生の投石により警察官多数が負傷をし、そのうち機動隊員の巡査が頭部に直撃を受けて重傷を負い、同日夜に死亡した。

広島大学も学生運動が盛んで左派色が強かったと聞く。

この中国地方の新左翼過激派が中国山地に『ベース』なり『アジト』なりを持っていた可能性はないだろうか。

そこで過激派が激化する警察の捜査から逃れたり、『革命』のための軍事訓練を行ったり、『都市ゲリラ教程』や『赤軍ゲリラ・マニュアル』を読んで具体的な闘争のノウハウを学び、パルチザンよろしくカモフラージュを身につけて移動していたところをヒバゴンと誤認された――。

ちょうど、ヒバゴンの目撃がパタリと止み、騒動が収束に向かっていった時期に、学生運動も下火になっている。

どうだろうか。
反革命的言説として、オカクロも統括されるだろうか。

「なんだよ! せっかく山奥に潜伏してブルジョア国家の転覆を目指そうとしてるのに、なんで革命戦士が人里まで下りてくるんだよ! お前の言説は甘えのあらわれだ!」
と諸兄はゲバ棒を手に言うかも知れない。

これに関して、当時大阪万博が開催中であった事実を指摘したい。

目撃が多発した西城町でも大阪万博に行くため家を空けていた者が多く、目撃者の数人は『留守番』だった。

つまり、革命戦士が万博の盛り上がりに乗じて『活動資金集めの空き巣』を行おうとしていた可能性を考えてみたがどうだろうか。銀行強盗をしていたぐらいだから、空き巣ぐらいするのではないか――と考えたが、反革命的だろうか。

と、言ってはみたものの、中国山地にアジトがあったとする話は聞かないし、空き巣の話も掴めなかった。我ながら荒唐無稽と言わざるを得ない。

新左翼の皆さん、疑ったりしてすみませんでした。

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サヨナラ、激動の昭和

最後に、この説に触れる。


町の陰謀説
陰謀論である。
ヒバゴン騒動は町によって仕組まれていた茶番である、とする。

これは噂の範囲を出ないからか、関連本やUMA本ではあまり触れられていない。噂大好きな週刊誌でも数行触れる程度だ。

ここは『謎の怪獣 ヒバゴンはどこへ行ったのか?』さんから引用させていただく。

情報 ・誰が言い出したのかは定かではないが、ヒバゴンは、県民の森の宣伝を狙ったでっち上げであるといった噂があったようだ。

・ヒバゴン騒動の中心地となった県民の森は、県民憩いの場・青少年の教育の場として1968(昭和43)に建設着手された。そして、最初のヒバゴン目撃が1970年(昭和45)7月、当時県民の森の造成工事も最終段階に進んでいたという。さらに、最初のヒバゴン目撃からピッタリ1年後となる1971年(昭和46)7月、県民の森がオープンしている。これは余りにもタイミングが良すぎ、計画的な陰謀めいたものを感じた人がいても決して不思議ではない。

・ヒバゴン騒動の結果として、比婆郡西城町は一気に知名度を高め、全国的にも有名になったことは間違いない。またその当時、西城町の町長さんが中央で陳情をした際、ほとんどが簡単に通ったらしい。もしも、本当に『町おこし』であったとしたら、狙い通り… いや、予想以上の大成功だったにちがいない。

疑問 ・県民の森を売り出す目的で、意図的にヒバゴンのような危険性のある謎の生き物を登場させるだろうか?当時の新聞報道を見ても、ヒバゴン目撃者達は皆が恐怖心をいだいていることがわかる。こんな恐ろしい怪獣の存在は、場合によっては逆効果になる可能性もあるのでは…?

・1970年(昭和45)ヒバゴン目撃情報が相次いだ当時、『町おこし』といった意識を持った人がどれほどいたかについては、はなはだ疑問ではある。折しも、高度成長期・・・ それほど『町おこし』といった意識は現在ほど高くなかったではないかと推定される。もしも仮に『町おこし』を狙ってヒバゴンが創作されたとするならば、予想以上の効果にその黒幕(張本人達)もビックリしたに違いない…?

・もしも仮に『町おこし』を狙った陰謀だったとすると、一体誰がこんなことを考え、実行したのだろうか?それによって、利益を得るものがいたのだろうか?

管理人さんとしては、『信じたくない説』とされている。
オカルトクロニクルとしても、陰謀論というのはあまり触れたくない。

が、ここはひとつ『町の陰謀説』をぶってみよう。

荒唐無稽な話になるが資料から得られた事実を下敷きに書くので、これはこれで真剣にヨタ話として聞いていただきたい。


陰謀論では上記のように『県民の森』の集客目的でヒバゴン騒動が起こされた、とする。

実際にヒバゴン騒動の最中、来客者は16万、17万、18万人と年々増え大盛況だった。
他にも類人猿温泉や、人形など関連するビジネスが町の収益を押し上げた。

これは町にとって喜ばしい事態だった。やってくる捜索隊も、探検隊も、好事家も、みながお金を落としていってくれるのだ。

『げいびグラフ 第86号』にこんなコメントが載っている。

「サルの怪物が出た広島県の町長ですが、と私の方から言うようになりましてね。おかげで陳情もスムーズにいきまして」
これは当時の町長の言葉である。

この町長はヒバゴン騒動の時期を含む10年間町長を務めていた。名はT氏としよう。氏は『青年の森』の建設計画が持ち上がる前に町長に就任している。

このT氏はかなり『豪腕』だった。
ヒバゴンという観光資源による『青年の森』の成功や、『スムーズにいく陳情』を背景にしてか、大きな建設計画をぶちまくった。西城町ではこの時期に道路や病院などが次々に建設されており、公共事業ジャブジャブである。


一連のヒバゴン騒動は町全体でなく、この町長が画策したとは考えられないだろうか?
町長の息のかかった者による工作である可能性はないだろうか?

こんな事を言うのも根拠がある。

ヒバゴンにまつわる諸情報では触れられていないが、このT氏は1974年5月に汚職で逮捕されている。ちょうど、ヒバゴン騒動の末期だ。

毎日新聞1976年8月26日の記事によれば、業者からワイロを取りゴルフ場開発の便宜を図っていたようだ。

かくして10年およんだT氏の町政は逮捕によって幕を閉じた形になる。

そしてその幕引きに続いて、類人猿係は閉鎖され、ヒバゴンもパッタリ現れなくなった。

もちろん、類人猿係が荷担したというわけでなく、おそらく市の職員のほとんどは茶番だと知らなかったと思われる。

クイゴン

こちらは久井町で小学生の兄弟によって目撃されたクイゴン。
左手に長さ1メートルほどの石斧を持ち、右手には石を握っており、「ホーホー」と叫ぶ。
画像出典:日本の幻獣・怪獣


『謎の怪獣 ヒバゴンはどこへ行ったのか?』さんでは、「陰謀で誰が利益を得るのか」と書かれているが、町長である。
豪腕開発による開発業者ないし建設業者からの裏金だ。


そして『町民が怖がっているのに、ヒバゴンをデッチ上げるだろうか』とあるが、これも穿った見方をしたとき、奇妙なことに気付く。

ときの庄原警察署の署長が、ヒバゴンについて以下のような訓示を署員にのべていたことが1973年4月の週刊平凡に書かれている。

「人畜に被害が出ていないので万一発見してもむやみに実力行使せず、愛情を持って対処せよ」
そして類人猿係でも山狩りなどを一切否定し「捕まえる気は一切無い。ヒバゴンは優しい生き物」と公言している。

これは少し奇妙ではないだろうか。
正体が何かもわからない存在を前にして、さも危険がないようなニュアンスの事を行政が言う。おりしも、「正体は『クマ』かもしれない」と専門家が新聞で語っているにもかかわらず。

「現状では被害はないが、これからもそうとは限らない――ゆえに予断を許さない。町民はくれぐれも注意されたし」これが正しい危機管理のありかただとオカクロ特捜部などは思うがどうだろうか。


この陰謀論では、ヒバゴンは着ぐるみだったと想定する。

となると、あまりにヒバゴンという存在の恐怖を煽り、いたずらに町民を武装させ撃たれてしまっては元も子もない。
ゆえに、温厚な生き物優しい生き物危害はない、と喧伝する必要があった。
(もっとも、出現するタイミングと場所は任意に決められるため、茶番を行う側として安全な時と場所を選ぶことは出来たろうが)

疑い始めるとキリがないが、『目撃証言の精査』も『意に沿ったイメージを保つための印象操作があった』と考えることも出来る。

そもそも、人間を恐れない、畑をまったく荒らさない、といった特徴が野生生物としては特異すぎると言わざるを得ない。何しに里まで下りてきたのか解らない。

目撃例全てが着ぐるみによるモノでなく、実際にサルだった目撃例もあったかもしれない。ゆえに目撃者間でも「サル派」と「絶対に違った派」が生まれた。

そして、騒動末期を経て、ヒバゴンはパッタリ姿を消した。指示していた町長がその座を追われたため、話題作りという『役目』を終えたからだ。


どうだろうか。ないだろうか。

『青年の森』や他の建設、土地の売買に関連する業者がわかれば、もうすこし面白いことを書けたかも知れないが、手に入る資料ではこの程度の陰謀論をぶつのが限界だ。

色々調べに広島まで行こうかと計画したが――交通費が捻出できず断念した。オカクロ特捜部は貧乏なプロレタリアートなのである。




ダラダラ書いているうちに冗長な項になってしまった。

ヒバゴンは歴史の闇に消えていった。おそらく今後、その正体が判明することは無いだろう。


ヒバゴンとはなんだったのか。

日本列島改造、急激な開発や自然破壊に対して警鐘を鳴らしに来たのだ、と言う人がいる。
山の神が住処を奪われて、文句を言いに来たのだ、と言う人もいる。

そうなのか、そうじゃないのか、そんなことは誰にもわからない。
各人が好き勝手に解釈するしかない。

1969年、ちょうどヒバゴンが目撃される前年、毎日テレビでツチノコを特集した番組が放映された。

町長がそれを目にして『茶番を思いついた』――かは定かでないが、番組にはツチノコ愛好家で知られる作家山本素石氏が出演し、ツチノコについての様々なうんちくを披露したそうだ。
放送終了後、番組への反響は凄まじく、やがてツチノコブームがやってくる。

1973年、やってきたツチノコブームのさなか、山本素石氏は一冊の本を上梓した。
タイトルは『逃げろツチノコ』

ツチノコを探し求め、クラブまで発足させた山本素石氏が、どうしてこんなタイトルを? と疑問に思ったが、内容にこうある。

ツチノコが騒ぎになって、賞金までかけられて、追いかけ回されているのが心苦しいと。ツチノコをダシにしたピエロにはなりたくないと。
私はもうツチノコを追いかけまい。しかし、ツチノコが棲みそうな山へは、動けなくなるまで行きつづけることだろう。そして、もしどこかでツチノコにめぐり逢えたとしたら、「お前やっぱり生きとったのか。よかったな。誰かが捕まえに来よらんうちに、はよう逃げろよ」とささやきかけることだろう。

ヒバゴンの一件でも、類人猿係に「捕まえないでくれ」という嘆願が多数寄せられたという。

様々な説を検証したが、こうして確固たる事実なり真相なりを追い求めるのも余裕のない浅ましいことなのかも知れない。だが浅ましいと自覚しつつも、知りたいという欲求に突き動かされてしまう。男っていつもそう。


ヒバゴンとは何だったのか。

本当に不可解な生物だったのか。本当に優しい生き物だったのか。

もしかしたら、自分たちの都合の良いように解釈しているだけで、本当は全部間違っているかも知れない。

本当は、ヒバゴンはまだ出没しているのかも知れない。この日本のどこかで。

ある人は言った。
「私たちは、怪物から逃げる事のできた人たちの話だけを聞いているのではないか」と。

 
■参考資料私が愛したヒバゴンよ永遠に 謎の怪物騒動から40年未確認動物UMA大全日本の怪獣・幻獣を探せ!―未確認生物遭遇事件の真相 謎解き超常現象3生きもの秘境のたび―地球上いたるところにロマンあり (叢書・地球発見)日本の謎と不思議大全 西日本編 (ものしりミニシリーズ)謎の動物の百科 (動物百科)パワースポットニッポンふるさとの四方山話 (芸備選書)赤軍ゲリラ・マニュアル都市ゲリラ教程 (1970年) (三一新書)動物妖怪譚〈下〉 (中公文庫BIBLIO)鬼・妖怪 (ふるさとの伝説)日本昔話通観〈第20巻〉広島・山口 (1979年)妖怪談義 (講談社学術文庫)読売新聞1971.10.21/1974.8.19/1980.11.14毎日新聞1974.5.25/1976.8.26夕/2015.1.20怪 29-2010.3新潮45-2008.9週刊平凡1973.4.5花も嵐も1991.9週刊プレイボーイ-1993.3.30月刊ムー-2005.1/2014.3論文:ちりめん本『竹篦太郎』に表れる「踊る猫」謎の怪獣 ヒバゴンはどこへ行ったのか?
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