誰も知らない、世界最長の物語―ヘンリー・ダーガーの秘密

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ある老人が亡くなった。
彼には友人も身寄りもなく、彼を知る者は、彼の名前しか知らないと言った。

彼の部屋を片付けようとしたアパートの管理人はそこで、異様なものを発見する。
300枚を超える巨大な極彩色のイラスト、膨大な1万5000ページに及ぶテキスト。
そのテキストにはタイトルがあった。『非現実の王国で』
これは、誰も知らない、世界で一番長い物語。

非現実の王国で、ひとり。

HenryDargerBannerc 1973年、シカゴで1人の男が亡くなった。

そのとき誰も気にもとめなかった。

亡くなったのは酷く孤独な老人で、同じアパートの住民との交流もなかった。
むしろ、一部の住人たちは、その老人を疎ましく思っていた。

彼はいつも決まって第一次大戦の軍用コートを着て、まるで浮浪者のようだった。

壊れた眼鏡は絆創膏で補修し、コートも繕った痕ばかり。
そしてごみ捨て場をウロウロして、なにやら拾っては持ち帰っているらしい。

住民たちはそんな老人を追い出して欲しいと大家に訴えたが、
大家は彼に同情的で追い出すどころか、その老人が孤独に過ごすクリスマスには『プレゼント』として家賃を下げている。

彼の名はヘンリー・ダーガー(Henry Darger)だったと言われている。

『言われている』というのは、誰も正確な発音を知らなかったからだ。
大家はダーガーと呼んだし、ダージャーだと言うものもいる。ダージャァとも。

寡黙な男で、掃除夫の引きこもり――住民たちにとって、ダーガーはそれ以上もそれ以下もない人間だった。

誰も彼を深くは知ろうとしなかったし、ダーガーも踏み込ませなかった。

彼の死後、近隣住民たちはインタビューされても『引きこもってばかりいる、浮浪者然とした孤独な老人』という印象以上を出せなかった。

『引きこもり』などと表現されるが、ダーガーは17歳から71歳まで働いていた。
ただ、掃除夫なり、食堂での皮むきという仕事で外出する以外は自室に閉じこもっていたため、誰も彼の『プライベート』を知らなかった。

ヘンリー・ダーガー

晩年のヘンリー・ジョゼフ・ダーガー。
ダーガーの写真は3枚しか残されていない。
画像出典:『ヘンリー・ダーガー 非現実を生きる』より ©Kiyoko Lerner ©David Berglund


そんなヘンリー・ダーガーが部屋で何をやっていたか?

それは彼の死後に次々と明らかになった。

1万5000千ページにも及ぶ小説。タイトルは『非現実の王国で』。
そして、その非現実の王国で起こった出来事を描いた挿絵。

これが、ヘンリー・ダーガーが亡くなる81歳まで60年近く続けていた秘め事だった。

小説はタイプライターで清書されたもので、7冊。
未清書のまま旅行カバンに収められていた原稿が8冊。これは、現時点で世界で最も長い小説である。


挿絵も一風変わったものだった。
長さにして、3メートルの廉価な紙に極彩色で描かれ、人物は雑誌の写真などを切り抜き、加工されたものだった。

誰にも見せず、誰にも知らせず、ただひたすらに書き続けられた一大叙事詩。

正式なタイトルは『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ―アンジェリニアン戦争の嵐の物語』という。

それはタイトルに示す通り、大きな戦争を巡る人々の物語である。

もし、アパートの大家がその小説や挿絵を『ゴミ』と判断していたら、そしてダーガーの入院に際して、大家のネイサン・ラーナー(註:ネイサン自身もアーティストであった)がこの膨大な作品群を見つけ、シカゴの芸術家コミュニティに持ちこまなければ、この物語は永遠に光を浴びなかった。

『非現実の王国で』

これは生涯孤独に生きた、ある老人と、その老人のためだけの物語である。


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世界一有名な無名画家

「ヘンリーの生涯は謎だらけだ。30年も彼を見知っていながら、実は何も知らなかった。時が経つにつれ、ようやくヘンリーの姿が見えてきた」
ネイサン・ラーナー


2004年、ダーガーの作品世界とダーガーの生涯を紹介するドキュメンタリーが制作された。

ダーガーの残した絵をデジタル処理し、アニメーション化している。このドキュメンタリーの出来は素晴らしい。興味を持たれた諸兄は是非ご覧になっていただきたい。

ともかく、通常、小説であっても、絵であっても、創作物というモノは第三者によって作成の過程において外部からの影響を受ける。それが編集者なのか、読者なのか、教師や師匠なのかはそれぞれであるが。これは公表して好評を得るための――蓄積されてきた知識と諸技術の介入――いわゆるアドバイスだ。
より見やすく、より斬新に。より芸術的に、あるいはキャッチーに。

だが、『非現実の王国』は誰のアドバイスも校正も入らない。ヘンリー・ダーガーありのままの作品世界である。

では、その『非現実の王国で』はどのような物語か。

これは長きにわたり戦争を繰り返す架空世界を舞台にし、7人の少女戦士が活躍する物語である。

この7人の少女は『ヴィヴィアン・ガールズ』と名付けられ、ダーガーの作成した挿絵にその姿を見ることができる。

そこでヴィヴィアン・ガールズについて必ず触れられるのが少女ながらに『男性のシンボル』を持っていると言うことだ。

これはダーガーが生涯に渡って女性と関係を持ったことがなく、女性の体についての知識がなかったため、少年と少女の違いを理解していなかった――とされるが、これについては後述する。

ウホッ、ふたなりっ子」などとその道に造詣の深い諸兄はニヤリとするかも知れないが、ついているといっても諸兄に期待される――凶暴凶悪なマグナム的――なものでなく、もちろん触手的なモノでもなく、いたって可愛らしいモノである。もちろん最近流行の『男の娘』というわけでもない。

小説のストーリーは子供奴隷を使役するグランデニアという国と、ヴィヴィアン・ガールズ率いるキリスト教軍が戦うという戦史ものだ。

グランデニアでは子供たちは親から引き離され、過酷な労働を強いられたり、牢獄に監禁され、虐待されていたりする。

その解放を目指し、悪のグランデニアと戦うのがヴィヴィアン・ガールズだ。

ヴィヴィアンガールズ

逃げるヴィヴィアン・ガールズ。
なぜか彼女たちは無意味に脱ぐ傾向があるが、そのおかげでしっかりと『ついている』のが確認できる。
不思議な事に小説の挿絵のはずなのだが、該当するシーンが存在しない絵もある。
――――
ダーガー本人による注釈:53.ジェニー・リッチーにてお父さんに知らせるため裸姿で嵐の前を疾走。
――――
画像出典:『ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で』より


ヴィヴィアン・ガールズは時として戦争の先陣を切り、時として捕虜となり、時には捕らえた敵将軍を尋問する。
非現実の世界では、あちこちに戦乱があり、ヴィヴィアン・ガールズはブレンギグ・ロメニアン・サーペンツ(通称ブレンゲン)という異形の怪物に助けを借りながら、転戦してゆく。

1万5千ページを超える、世界で最も長い長編小説であるのだが、全体をつなぐプロットはほとんど見られない。ひたすらにヴィヴィアン・ガールズを巡る冒険と戦いが繰り返され、隙間隙間にユーモラスなエピソードが挟まれる。

戦争が舞台であり、ヴィヴィアン・ガールズが主演女優だ。

この長大極まる物語は、その長大さや脈絡のなさで研究者たちを苦しめているが、いくつか興味深い点がある。

それはヴィヴィアン・ガールズがダーガーの人生とシンクロする部分が見られることだ。

ヘンリー・ダーガーは1892年、イリノイ州シカゴで生まれた。
4歳の時に、母親が妹を出産した際、感染症で亡くなり、生まれたばかりの妹は養子に出された。

自分に妹がいることをダーガーは知っていたが、以降の人生で彼女と会うことはかなわなかった。これが『ヴィヴィアン・ガールズ幻想』の元になったと分析する者もいる。

8歳になるまで父親と二人暮らしをしていたが、父親が体調を崩し、児童施設へと送られた。すぐに公立の小学校へ編入するが、ここで事件が起こった。

ダーガーが口と手を使い、『不快な音』を立てることに腹を立てた同級生がダーガーに「止めろ」と言うと、ダーガーは止めるどころかますます不快音を大きくした。そこで放課後に呼び出され、喧嘩となり、ダーガーは普段から持ち歩いていた棒で同級生たちを叩きのめしたという。

これがキッカケとなり、イリノイ州精神薄弱児施設へ送られた。

施設で過ごす間に父親が他界し、ダーガーは16歳にして天涯孤独となった。
そして17歳のとき、施設を脱走して一夏かけて300kmもの距離を踏破し、シカゴへと戻った。

そこで聖ジョセフ病院の掃除夫の仕事に就き、この時期から『非現実の王国で』の執筆を始めている。

多感な少年時代に様々な施設を渡り歩き、様々な人々に虐げられてきた。

先に挙げた『同級生との喧嘩』の件にしても、ダーガーは自身を被害者だと感じていた。なのに学校の教師はダーガーだけに処罰を加え、追放までされる。そして送られたイリノイ州精神薄弱児の施設では強制労働が待っていた。

これらの経験によって、ダーガーは『大人』への不信感を募らせ、それが『子供奴隷を使役する悪のグランデニア』と重なってゆく。

ダーガーにとって大人とは、分からず屋で、偏屈で、子供たちを抑圧する存在だったようだ。
それに対峙するのが気高きヴィヴィアン・ガールズというわけだ。

「美しく、気高く、ほのかで清純な、ちょっとおびえた表情、しかしもっとも愛らしく、神聖で、威厳に満ちた存在感がある。彼女たちの表情さえ絵にすることができれば……」
これは作中に登場する絵描きの少年ペンロードによるヴィヴィアン・ガールズ評である。これは登場人物の口を借りたダーガーの心情だったのでは、と分析される。

俗悪な大人。記憶に薄い母の愛情。失われた妹。

それらの要素がダーガーの中で熟成され、キャラクターとして命を吹き込まれた。
興味深い事に、ダーガー自身もキャラクターとして小説に登場している。時には敵軍の将軍として、時には新聞記者として。

以上のように『非現実の王国で』はダーガーの人生と重なり、経験と重なり、感情とも重なっている。

だが、現実の世界は非現実の王国とは違う。

どれほどダーガーが苦しもうが、ヴィヴィアン・ガールズは助けに来ない。奇妙な怪物ブレンゲンは守護してくれない。

ダーガーは現実の世界と、自分が生み出した架空の世界を混同していた。境界が曖昧だった」とダーガーの精神異常を疑う者がいる。証言に残る様々な『奇行』はそのためだ、と。

彼は非現実の王国で生きていたか?

次ページではヘンリー・ダーガーという生身の人物に光を当ててみよう。
 
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