資料 ディアトロフ隊のメンバー詳細

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ディアトロフ隊のメンバー詳細

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項:『ディアトロフ峠事件――ディアトロフ峠事件―数奇にして奇妙なる9人の死』の資料。
詳細は不要かとも思いましたが、一応置いておきます。事件に興味を持った諸兄の理解の助けになれば幸いです。
情報に間違いがあれば、適宜修正する予定。
記事執筆用のメモを貼っただけなので文章の酷さはご容赦いただきたい。



Igor Dyatlov “Igor”
イーゴリ・アレクセーエヴィチ・ディアトロフ
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イーゴリ・ディアトロフ


トレッキング・グループのリーダー。当時23歳。ディアトロフ峠は彼の名にちなんで名付けられた。
ウラル工科大学の5回生。エンジニアリングの能力に秀でる。

彼はサヤン山脈に登山した1956年、登山しながらラジオを組み立てた。――その必要があったかどうかは別として、優秀なエンジニアであったことは確かなようだ。1958年以来ディアトロフ自身が愛用し、最後のトレッキングでも使用されたミニストーブも彼のお手製である。

ディアトロフを知っていた人々は、彼を慎重で思慮深い人と評した。
ディアトロフは今回の旅にも加わったジーナに言い寄っていたが、ジーナもマンザラでなく、微妙な両思いだったらしい。グループ内でディアトロフは今回のようなトレッキングに熟練しているアスリートのうちの1人であった。
■発見状況と検死
1959年2月26日発見 発見場所:森とキャンプ場の間 2番目に発見される。

死亡時は無帽。ポケット付きの毛皮コートを着用も、ボタンは外れていた。その下にセーター、長袖シャツ、パンツの上のスキーパンツを履いている。履き物はなし。ソックスあり――右は羊毛、左は綿。所持品はポケットナイフとジーナの写真。

 
・額の軽い擦傷。 左の眉毛より上に擦傷。茶色――赤色。

・両方頬にも擦り傷。茶色――赤色。

・唇に乾燥した血液付着。下顎からは切歯が失われているが、粘膜の状態から歯はこのトレッキングの以前に失われたと思われる。

・右前腕の下1/3および 掌に無数の小さなひっかき傷。赤暗色。

・右手の中手指節関節は、茶色の赤い挫傷。これは、格闘した際に見られる損傷である。

・左手は茶色がかった紫の打撲傷、また二番および五番の指に表在性創傷。膝には内出血を伴わない打撲。右脚の下1/3が挫傷。両足首関節に擦傷、明赤色、大きさ1×0.5cmと3×2.5cm。下の組織に出血。

・内部損傷はなし

死因:低体温
特筆:ドロシェンコの服を着ていた。

※体調不良でトレッキングの初期で脱落して村へ戻ったユージンは、ディアトロフの着ていた長袖シャツ見て、それがユージンのものであったと証言した。奇妙な事にユージンはそれをドロシェンコにプレゼントしたはずだった。これはシャツをプレゼントされたドロシェンコが死亡したあと、ディアトロフが遺体から服を剥ぎ取ったと考えられる。




Yuri Doroshenko “Doroshenko”
ユーリー・ニコラエヴィチ・ドロシェンコ
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ユーリー・ドロシェンコ


当時21歳。ウラル工科大学の学生。

一時期、ジーナと恋仲にあり、彼女の両親に会うために、ロストフ州カメンスクまで出向いている。
恋愛関係が解消された以後も、ジーナやディアトロフと良好な関係を維持していた。
キエフに親戚が住んでいるというが、他に彼に関しての情報は少ない。

以前のトラッキングでは、クマを地質ハンマーだけで追い払うという武勇伝を残したらしい。豪の者かもしれない。

■発見状況と検死
1959年2月26日発見 発見場所:ゲオルギーとともに森林のはずれの大きなヒマラヤスギの下。最初に発見される。

ドロシェンコは、ヒマラヤスギの下で見つけられた2つの遺体のうちの1人。彼のズボンは損傷が激しく、右側に1つの大きな穴(長さ23cm)、左にも穴があった(長さ13cm)。大腿の内側に裂け目あり。 足にはウールのソックス、うち左ソックスには燃焼の痕跡がみとめられた。靴は履いていなかった。
毛髪は、頭部の右側で燃やされている。
耳、鼻、唇は血液に覆われている。右腋窩には2×1.5cmの挫傷。右肩に出血のない2つの擦傷2×1.5cm。右前腕の上1/3、茶色――赤色の挫傷4×1cm、2.5×1.5cm、5×5cm。
両手の指は、皮膚を裂いていた。両下肢の上1/3の皮膚に打撲傷。
顔面と耳の凍瘡。右頬に、口から出たとおぼしき灰色の泡状分泌物。

※右頬に見つけられた泡だらけの灰色の流体は、何人かの医師によれば、死の直前に誰か――または何かが、彼の胸腔を圧迫したのではないかと推測された。これはヒマラヤスギに登ろうとして、あるいは登って落下した結果でもあるかもしれない。だがこれらは最終報告書において無視された。
死因:低体温。
特筆:薄着だったとされる。




 
Yuri Krivonishchenko “Georgy”
ユーリー・アレクセーエヴィチ・クリヴォニシチェンコ “ゲオルギー”
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ユーリー・クリヴォニシチェンコ ”ゲオルギー


当時24歳。ウラル工科大学を卒業したばかりだった。

ゲオルギーは宮廷道化師と揶揄されるほどいつもジョークを言い、マンドリンを奏で、友人たちを楽しませた。
1957年チェリャビンスクで核再処理施設が稼働中、キシュテム事故(ウラル核惨事)として知られる事故が起こった。これはディアトロフ峠事件にも少なからず影響する事柄なので、他サイトから引用させていただく。

1957年9月29日に、南ウラルのチェリャビンスク-65(チェリャビンスク市の北北西71km、キシュテムの東15kmに位置するマヤク核兵器生産コンビナート)の再処理施設で、高レベルの硝酸アセテート廃液の入った液体廃棄物貯蔵タンクの冷却系統が故障したために、加熱による化学的な爆発がおこり、タンク内の核種7.4E17Bq(2,000万キュリー)のうち、約9割が施設とその周囲に、約1割にあたる7.4E16Bq(200万キュリー)が環境中に放出され、チェリャビンスク州、スヴェルドロフスク州、チュメニ州などのテチャ川の下流の町を300kmにわたり汚染した。このため34,000人が被ばくしたといわれる。
(引用元:旧ソ連における南ウラル核兵器工場の放射線事故)
ゲオルギーはそれを除染するために送られた技術者の1人だった。その際にゲオルギーが被爆し、服も微量の放射能を帯びた――それがディアトロフ峠で回収された放射能汚染された着衣――という可能性もなくはない。だがゲオルギーは放射能についての高度な知識を持っていた技術者であり、その彼が汚染されているかも知れない2年前の服をトレッキングに着ていくか――と考えると可能性は薄いように思われる。
■発見状況と検死
1959年2月26日発見 発見場所:ドロシェンコとともに森林のはずれの大きなヒマラヤスギの下。最初に発見される。

ゲオルギーはヒマラヤスギの下で見つかった2体のうちの1人遺体はほとんど下着姿だったと言われ、靴は履いていなかった。
手の傷とスギの木の状態から、木の登ったのではないかと推測される。

額に0.3×1.8cmの打撲傷。左側頭骨周辺に挫傷。側頭筋の損傷、右側頭および後頭部で出血。
鼻の先端が欠落。耳は凍傷。右胸部に挫傷7×2cmと2×1.2cm。
手の打撲傷、あざ。2cmの幅で左手背面にある表皮が剥離。右手表皮の一部は、死亡者の口内で見つかる。
大腿の打撲傷およびひっかき傷。左腰部の打撲傷10 x 3cm。左下肢の外側に擦傷6×2cmと4×5cm。左下肢の打撲傷2×1、2×1.5と3×1.3cm。
左下肢に火傷10×4cm。
死因:低体温。




 
Zinaida Kolmogorova “Zina”
ジナイダ・アレクセーエヴナ・コルモゴロワ “ジーナ”
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ジナイダ・コルモゴロワ ”ジーナ


 
当時22歳。ウラル工科大学ラジオエンジニアリング専攻の四回生。

彼女も経験豊富なハイカーだった。過去のトレッキングで毒蛇に噛まれたとき、痛みに苦しみながらもグループの仲間に負荷をかけまいと荷物持ちの申し出を断り、そのままトレッキングを完遂するほどの精神力の持ち主。

性格は極めて外向的で、活動的。彼女を知るものは彼女を『大学のエンジン』と評した。アイデアに溢れ、様々な物に関心を寄せ、人には敬意を持って接していたので自然と人々は彼女に惹きつけられ、愛された。

■発見状況と検死
1959年2月26日発見 発見場所:森とキャンプ場の間 2番目に発見される。
ヒマラヤスギの下で見つかった2人(ドロシエンコとゲオルギー)と比較して、服装はまともだった。
2つの帽子を所持。長袖シャツ、セーター、もう1枚ずつのシャツとセーター(袖の裂けたもの)彼女がそれを自分で裂いたか、あるいは別の誰かによるものかは不明。
ズボンは着用していた。綿のアスレチックパンツ・三つ穴の開いたスキーパンツ。3対のソックスを履いているが、靴は履いていない。

髄膜(脳と脊髄をカバーしている膜)の腫脹。低体温症でよくみられる特徴。
指骨の凍瘡。手と手掌に多数の打撲傷。
胴体右側で身体を囲むような長い挫傷29×6cm。
死因:低体温。

※ジーナは悲劇的なアクシデントによる低体温症で亡くなったと宣言された。検死の結果、彼女が死亡時に性的不活発(not sexually active)であったことも判明する。




Rustem Slobodin “Rustik”
ルステム・ウラジーミロヴィチ・スロボディン”Rustik”

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ルステム・スロボディン”ルステム



当時23歳。1959年にウラル工科大学を卒業。

非常に優れたアスリートであったが物静かでもあった。
正直で折り目正しく、長旅の時はしばしば持参したマンドリンを弾いて皆を楽しませた。ロシアのテレビ局が2000年に制作した番組『The Mystery of Dyatlov Pass』のインタビューで、ルステムを知る人物は彼を『バランスマン』と評した。楽しい時も苦難の時も冷静に同じアプローチができる人物だったという。彼はどんな状況でも落胆しなかった。奇妙なドングリ帽子がシャレオツ。

■発見状況と検死
1959年2月26日発見 発見場所:森とキャンプ場の間 2番目に発見される。

長袖シャツ、別のシャツ、セーター、2対のズボン、4対のソックスを履いていた。他の遺体と違い、ルステムは右足にだけブーツを履いていた。
ポケットには310ルーブルとパスポート。さらにナイフ、ペン、鉛筆、櫛、靴下を片方だけ、マッチ箱などを所持。

額に褐色がかった赤い擦傷、2つのひっかき傷は、0.3cmの間隔で長さ1.5cm。
眼瞼に褐色がかった赤い打撲傷、内出血を伴う。鼻からの血液分泌物の痕跡。
腫れた唇。顔面右半分に不規則な形状の無数の小さい擦傷、腫脹。
右前腕から表皮の裂け。
両手の中手指節関節の挫傷、類似の挫傷は、格闘した際に見られる。これはディアトロフと同様。
左腕と左の手掌の内側側面に茶色いサクランボ形のあざ。左の脛骨の打撲傷2.5×1.5cmの大きさ。
側頭筋に損傷、頭蓋骨、前頭骨骨折。これは、外国の鈍器で叩かれたような破壊。
死因:低体温。
特筆:頭蓋骨骨折。

※上記頭部への強烈な打撃が遺体から読み取れるが、解剖所見ではこれ自体は直接的な死因ではなく、やはりルステムも低体温症で亡くなった。ただ頭部への打撃が低体温症の進行を早めたことは疑いないとする。
そしてルステムがどのようにして手足頭に怪我をしたか、全くの不明である。ルステムの遺体は奇妙な事が多いと所見では述べられている。
以下原文まま。

It is still somewhat unclear how he managed to harm his exterior hands and legs.When a person falls, even in an irrational state, it is usually the palms that suffer the most as well as medial aspects of the legs. Injury to the head is less common, especially bilateral ones. It is also usual to harm the face and sides of the skull while the back of the head has no damage. In case of Slobodin body we see the opposite. His injury pattern is a reverse of what we would usually see in injuries suffered by a freezing man in the last minutes of his life.



Lyudmila Dubinina “Lyuda”
リュドミラ・アレクサンドロヴナ・ドゥビニナ “リューダ”
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リュドミラ・ドゥビニナ ”リューダ


当時20歳。ウラル工科大学生、工学と経済学を学んでいた大学3回生。これ以降に発見される遺体は、損壊が酷くなり、妙な事実が混じり始める。

リューダは活発な性格で、歌ったり踊ったり、なにかを撮影するのが好きだった。ディアトロフ峠事件で見られる当時の写真の多くは彼女によって撮影されている。

彼女もジーナ同様タフだった。イースタン・サヤン山脈への遠征の際、他人がライフルの手入れをしている際に誤射し、その弾は近くにいたリューダにあたった。だが彼女はトラブルとなることをよしとせず、不満も文句も言わず、ただ耐えて乗り越えた。ちなみに、リューダは熱心な共産主義者。

■発見状況と検死
1959年5月4日発見 発見場所:大きなヒマラヤスギから75m離れた小さな峡谷。3番目に発見される。
半袖シャツ、長袖シャツ、2着のセーターを着用。小さい帽子、2対の暖かい靴下、片方だけの靴下、下着、長靴下、2対のズボン。外側のズボンは燃焼によるダメージがあり、裂けていた。
リューダはセーターを二つに裂いて、それで足の保温を行おうとした痕跡がある。その片方は左足をくるんでいたが、もう片方は雪の上に落ちていた。ゲオルギーのズボンをはいていた。

舌は口底からまるごと失われている。
眼窩周辺から柔らかい組織が失われている。眉毛そして、左側頭領域の骨が部分的に露出。
眼球は失われている。
鼻の軟骨が折れ、平坦になっている。
右側2番 3番 4番、及び5番の肋骨が骨折。2本の骨折線が見える。
左側2番 3番 4番 5番 6番、および7番の肋骨が骨折。2本の骨折線が見える。
上唇の軟部組織は失われている。歯と上顎が露出。
心臓、右心房に大量出血。中間の左大腿の挫傷、大きさ10×5cm。
左側頭骨周辺に組織の損壊、大きさ4×4cm。
死因:心臓の致命傷。ないし低体温。
特筆:衣服から高いレベルの放射能が検出される。

※所見によれば、胃が約100グラムの凝固血を含んでいた。つまり、舌が抜かれた、ないし噛み切った時点で心臓は動いていたとされる。
死因は右心房の大量出血。複数の折れた肋骨により引き起こされた可能性が高い。舌は見つかっていない。



Alexander Zolotaryov “Sasha”
セミョーン(アレクサンドル)・アレクサンドロヴィチ・ゾロタリョフ “サシャ”
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セミョーン・ゾロタリョフ ”ゾロタリョフ


当時37歳。彼の2つ名は『不可解』だ。
最年長で、ガイドのようなことで生計を立てていたとされ、仕事として今回のラストトレイルに参加したものと思われる。

2つ名、などと上で表現したが、ゾロタリョフの名は2つでは収まらない。仲間たちには「サシャ」または「アレキサンダー」と呼ばせていたが、本名はセミョーンであるとされ、それすらも本当かどうかわからない。

彼が毎度異なる名で自己紹介した理由はいまだに判然としていない。多言語を話すことができ、確認できただけでも ロシア語、ポーランド語、ウクライナ語そしてドイツ語に通じていた。

見た目は穏やかで、なんだか婚活に本気を出しはじめたチャップリン――のようであるが、 『For the Defense of Stalingrad(スターリングラードの防衛のため)』『 For the capture of Konigsberg(ケーニヒスベルクの捕獲のために)』『For the Victory over Germany(ドイツの勝利のために)』『Red Star』という以上4つの勲章を授与されているタフな軍人でもあった。服の下には様々な入れ墨も彫られており、人は見た目ではないと我々を諭してくれる。
 
■発見状況と検死 1959年5月4日発見 発見場所:大きなヒマラヤスギから75m離れた小さな峡谷。3番目に発見される。ゾロタリョフの2つの帽子と共に発見された。身につけていたのはスカーフ、シャツ、長袖シャツ、黒いセーター、上部のボタンが外れたコート。
ゾロタリョフはどうやら低体温症で亡くなったわけではない。下半身は下着と2対のズボン、スキーパンツによって保護されていた。
所持品は、新聞のコピー、硬貨、コンパスほか。
彼の足は、「ブルカ」として知られているソックスと暖かい革の手製の靴によって保護されていた。そして、首からカメラをさげていた。
これには途中で帰還したユージンは驚いたらしい。普段から使用していた物と別に、ゾロタリョフはもう1台カメラを所持していたことになるが、そんなことは隊の誰も知らなかったと。しかし2台目のカメラは内部が水浸しになっており、残念ながらゾロタリョフが何を撮影していたかは永遠に謎となった。

眼球は失われている。
左眉周辺の柔らかい組織は失われ、骨が露出。大きさ7×6cm。
動揺胸郭。 右側2番 3番 4番 5番 6番の肋骨が骨折。2本の骨折線。
頭蓋骨の右側上部に開放創。骨が露出、大きさの8×6cm。
死因:致命的な内部の破壊、ないし低体温。
特筆:ジーナのコートと帽子を着用。リューダとゾロタリョフは体型に大きな違いがあるにもかかわらず、似たような損傷をしている。衣服から放射能が検出される。




Alexander Kolevatov “Kolevatov”
アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・コレヴァトフ
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アレクサンドル・コレヴァトフ “コレヴァトフ


 
当時24歳。ウラル工科大学で物理学を学ぶ4回生。

鉄金属の冶金学なども学び、優秀な学生として評価されている。原子力関連の研究室に身を置いたこともある。
彼の友人はコレヴァトフを『明白な統率力をもち、勤勉、衒学的、論理的であった』と評する。

■発見状況と検死 1959年5月4日発見 発見場所:大きなヒマラヤスギから75m離れた小さな峡谷。3番目に発見される。
眉および眼窩周辺の軟組織が失われている。頭蓋骨の露出。
鼻の骨折。
耳に開放創耳、大きさ3×1.5cm。
頸部が変形。
死因:低体温と推察される。
特筆:コレヴァトフの解剖に関して、遺体が回収された時にすでに腐敗・分解が激しく、詳細な情報が得られなかった。




Nikolay Thibault-Brignoles “Kolya”
ニコライ・ウラジーミロヴィチ・チボ=ブリニョーリ ”コリャ
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ニコライ・チボ=ブリニョーリ ”コリャ



当時23歳。ウラル工科大学で土木工学を学び、1958年に卒業。

共産党員の息子で、父親は スターリンの暗黒時代に処刑され、コリャは強制収容所で生まれた。

そんな暗い境遇を跳ね返すかのようにエネルギッシュでユーモアにあふれた明るい人物で、その率直な人柄や優しさで友人達にとても愛された。彼は気を配り、誰にも不快な思いをさせないことを誰もが知っていた。若く、体力のないメンバーがトレッキングに参加していると、その者の荷物を持ってやったり、いつも皆が快適に過ごせるように配慮する優しい人物だった。
コリャはこれを最後のトレッキングにする、と母親に約束していが、結局彼は帰らなかった。

■発見状況と検死 1959年5月4日発見 発見場所:大きなヒマラヤスギから75m離れた小さな峡谷。3番目に発見される。

頭蓋骨の側頭骨に対する多発骨折。拡張が正面のおよび蝶形骨に対してみられる。
左側上唇の打撲傷。
下部の前腕の出血、大きさ10×12cm。
死因:重度の頭蓋骨骨折、ないし低体温。

※剖検によれば、コリャの広範囲に及ぶ不可思議な骨折の理由は明確にできないが、岩からの偶発的な転倒は除外すべきとした。

※捜索後期に発見されたリューダ、ゾロタリョフ、コレヴァトフ、コリャ、以上の4人に関して、それぞれが骨への損傷が激しく、かつそれが広範囲に至っていたため、剖検は車に轢かれたような、と表現した。




Yuri Yudin “Yudin”
ユーリー・エフィモヴィチ・ユージン
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ユーリー・ユージン ”ユージン


当時21歳。
イケメン枠。
体調不良のため1月28日に引き返しため、難を逃れた。

ディアトロフ隊の持ち物や、内情について貴重な証言を残している。

 
2013年4月27日死去。



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